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馬淵逸雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
馬淵 逸雄
生誕 1896年8月31日
日本の旗 日本 愛知県
死没 (1973-09-17) 1973年9月17日(77歳没)
所属組織 日本陸軍
軍歴 1918 - 1947
最終階級 陸軍少将
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馬淵 逸雄(まぶち いつお、1896年(明治29年)8月31日 - 1973年(昭和48年)9月17日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍少将

経歴

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旧板倉藩[どこ?]士・戸長、馬淵栄吉の息子として生れる。名古屋陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、陸軍少尉に任官し歩兵第34連隊付となる。1929年(昭和4年)11月、陸軍大学校(41期)を卒業した。

歩兵第34連隊中隊長、近衛師団司令部付、第7師団参謀陸軍省官房付、軍務局付、上海派遣軍司令部付などを経て、1937年(昭和12年)11月、歩兵中佐に昇進。1939年(昭和14年)3月、中支那派遣軍司令部付(報道部長)となり、1939年(昭和14年)8月、歩兵大佐に進級。支那派遣軍参謀(報道部長)を経て、1940年(昭和15年)12月、陸軍報道部長に就任。

報道部長時代は、火野葦平などの文化人を戦線に案内して国内向けに従軍作家による報道を充実させたほか、上海における敵性租界言論工作、親日新聞の創刊など情報統制を行った[1]

1941年(昭和16年)10月、第20師団隷下の歩兵第78連隊長に発令され朝鮮半島に駐屯し太平洋戦争を迎えた。1942年(昭和17年)12月、第5師団参謀長となり、1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進んだ。1945年(昭和20年)2月、第16軍隷下の独立混成第27旅団長に就任し、ジャワ島バンドンの守備に従事し終戦を迎えた。1947年(昭和22年)5月に復員。同年11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

著書

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  • 『報道戦線』改造社、1941年。
  • 『東亜の解放』揚子江社出版部、1941年。
  • 『日本の方向』六芸社、1941年。

親族

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脚注

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  1. ^ 東部軍司令官に田中静壱中将『東京日日新聞』(昭和16年10月16日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p786 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。
  3. ^ 加藤治郎・原田泰夫・田辺忠幸『証言・将棋昭和史』(毎日コミュニケーションズ)P.113

参考文献

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  • 西岡香織『報道戦線から見た「日中戦争」 - 陸軍報道部長馬淵逸雄の足跡』芙蓉書房出版、1999年。ISBN 4829502290
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。