餅田千代
餅田 千代(もちた ちよ、1910年 - 1991年5月5日)は、日本の孤児院(のちに児童養護施設)・向陽寮の初代寮長(寮母)である。
概要
[編集]1910年生まれ[1]。
1948年2月に開設された長崎県立孤児院(のちの児童養護施設)・向陽寮の初代寮長(寮母)に就任[1][2][3]。当時は37歳で子供2人を抱え[3]、戦争寡婦向けの授産所に勤務していた[2]。就任の経緯は、向陽寮の建設を主導したGHQからの「教職員非経験者」「入所児童とともに生活できる独身女性」との条件を満たし、アメリカ合衆国での3年の生活経験も考慮され、選考、就任に至った[4]。寮では、餅田とその子供および戦災孤児を中心とする入所児童・少年らの共同生活で、家事分担・年少者の世話・寮内規則の制定や運用など、入所児童・少年らも寮運営に関与した[2]。 生活指導では、退所後に自立できる様、物事の善悪や、嘘をつかないなどを厳しく指導した[2]。また、寮生活を送る皆は家族との観点、自身に対しては「お母さん」、職員に対しては「おじさん」「姉さん」の呼称を使わせた[4]。向陽寮の開設当初は物資・食料・予算などの不足が深刻で、入所者の生活の維持に尽力した[3][5]。1963年に向陽寮を離れ婦人寮に転任、1968年に向陽寮へ復任[6]。1977年に向陽寮勤務を終える[7]。
退任後は、保護司を務めるなどした[4]。1991年5月5日に死去、享年82歳[2][4]。
性格は、長男によると「豪胆」「何事にも積極的」[4]。
2021年、向陽寮での活動について、NHKテレビ番組『こころの時代〜宗教・人生〜』にて「私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜」[1]、ETV特集「ひまわりの子どもたち〜長崎・戦争孤児の記憶〜」[8]が放映された。
著書
[編集]- 『ひまわりの記 -児童福祉こと始め 長崎県立向陽寮』 - 出版人:餅田健、1990年。
脚注
[編集]- ^ a b c “こころの時代〜宗教・人生〜>私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜”. 日本放送協会. 2021年5月17日閲覧。
- ^ a b c d e “向陽寮の足跡 戦争孤児の居場所・1 【散り散り】たどり着いた「天国」”. 長崎新聞. 長崎新聞社 (2020年11月12日). 2021年5月17日閲覧。
- ^ a b c 餅田千代「肉もなく、物もなく、貧しい中で育った子供達 - 向陽寮の子供達 - 1」『ばってんウーマン』第4号、ばってんウーマン事務局、1977年12月20日、4-5頁、2021年5月17日閲覧。
- ^ a b c d e “向陽寮の足跡 戦争孤児の居場所・2 【寮長】みんなの「お母さん」”. 長崎新聞. 長崎新聞社 (2020年11月13日). 2021年5月17日閲覧。
- ^ 近江宣彦「長崎県の戦後期児童福祉施設における要援護の状況と「ララ救援物資」の配分に関する考察」(PDF)『コミュニティ振興研究』21号、常磐大学コミュニティ振興学部、2015年11月20日、146-147,150、ISSN 1346-7255、2021年5月18日閲覧。
- ^ “昭和時代(8)”. 長崎年表. 藤城かおる. 2021年5月18日閲覧。
- ^ 餅田千代「信州長野の集いから」『ばってんウーマン』第3号、ばってんウーマン事務局、1977年9月29日、4-5頁、2021年5月17日閲覧。
- ^ 2021年8月14日放送 - 日本放送協会
関連文献
[編集]- 鶴文乃 編『いっしょうけんめい きょうまで生きてきたと! 長崎県立養護施設「向陽寮」の元寮生たちの手記』 - ファミネット刊。