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頼賀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
らいが
頼賀
生年不詳 - 元和5年(1619年)2月5日[1]
宗旨 修験道
寺院 富士山興法寺
称号 大鏡坊名跡
富士山興法寺歴代
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頼賀(らいが)は、戦国時代から江戸時代初期の富士山興法寺衆徒

経歴

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頼賀は富士山興法寺歴代[注釈 1]のうち第52代に数えられる人物であり[1]村山三坊のうち大鏡坊を継承した衆徒である。

天正11年(1583年)7月に頼賀は大鏡坊を継承している[2]。また同年の頼賀の発給文書によると、富士先達である者の檀那場を保証するなどしている[注釈 2]。これは大鏡坊の代替わりにあたり、従来の権利を追認したものと目される[2]

大鏡坊を継承する者は「頼」を通字としており、例えば第50代は「頼慶」[3]で、頼賀の先代にあたる第51代は「頼恵」である。また『富士山伝記并興法寺歴代』によると頼慶の弟が頼恵で、頼慶の子が頼賀とある[4][5]

妻子

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妻は大宮城主であった富士信忠の娘である[6][2]

また江戸幕府旗本である井出正易の母親は頼賀の娘であるため(父親は井出正勝)、正易は頼賀の孫にあたる[7]

妻の出自である富士氏駿河国富士上方(現在の静岡県富士宮市)の国衆であり、また頼賀自身も同じく富士上方の勢力であった。頼賀の一族は『葛山系譜』に記されるため富士郡の葛山一族とされるが[8]、系図が不正確である点も指摘され、一族全体の様相は判然としない部分がある[9]

また頼賀の娘が嫁した井出家も本家筋が富士上方を本拠とする一族である。

脚注

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注釈

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  1. ^ 富士山興法寺の住持
  2. ^ 富士先達は免許制であり、村山三坊から認められた者が名乗ることができ、案内人等として活動することが許可された。先達は活動する持ち場が決められており、その持ち場(檀那場・旦那場)を認めたことを意味する。

出典

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  1. ^ a b 大高 2013, p. 79.
  2. ^ a b c 阿部ら 2019, p. 348.
  3. ^ 『戦国遺文』今川氏編 1071号
  4. ^ 宮地直一広野三郎『浅間神社の歴史』、古今書院、1929年、837-838頁
  5. ^ 長谷川 1993, p. 15.
  6. ^ 富士宮市教育委員会『村山浅間神社調査報告書』115-116頁、2005
  7. ^ 寛政重修諸家譜』巻第千百一
  8. ^ 長谷川 1993, p. 15-16.
  9. ^ 近藤祐介「富士山興法寺と武家権力」『領主層の共生と競合』、2024、80-83

参考文献

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  • 長谷川弘道「戦国大名今川氏の使僧東泉院について」『戦国史研究』第25号、1993年、12-22頁。 
  • 大高康正『富士山信仰と修験道』岩田書院、2013年。ISBN 978-4-87294-836-3 
  • 阿部美香・大高康正・井上卓哉・阿部泰郎・伊藤聡・三好俊徳・猪瀬千尋「〔資 料〕 菟足神社所蔵 富士山・熱田信仰史資料調査報告」『学苑』第949号、2019年、340-390頁。 

関連項目

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