韓信 (韓国軍人)
韓信 | |
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生誕 |
1922年12月27日 日本統治下朝鮮咸鏡南道永興郡 |
死没 |
1996年5月6日(73歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
軍歴 | 1946年 - 1975年(韓国陸軍) |
最終階級 |
少尉(日本陸軍) 大将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立ソウル顕忠院将軍第3墓域10号 |
韓信 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 한신 |
発音: | ハン・シン |
日本語読み: | かん しん |
韓 信(ハン・シン、한신)は、大韓民国の軍人、企業家。朝鮮戦争では第1連隊を指揮。太極武功勲章授与者。
経歴
[編集]1922年12月、咸鏡南道永興郡に生まれる。本貫は清州韓氏[1]。咸興高等普通学校を卒業後、日本に渡り中央大学で法律を専攻した。1943年、中央大学卒業。学徒出陣して日本軍少尉。終戦後は故郷に戻ったが、共産政権を避けてソウルに行く。
1946年12月、警備士官学校第2期卒業、任少尉(軍番10183番)。第8連隊の創設に参加し、小隊長や中隊長を歴任。軍紀司令部行政官を経て1948年11月に第18連隊作戦主任に就任。
1949年、第18連隊副連隊長。1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると議政府方面に投入される。同年7月、水原-平沢-清州-尚州-安東の線で遅滞。同年8月9日、第1連隊長。釜山橋頭堡の戦いにおける杞渓・安康の戦いで活躍した。1950年12月の興南撤退作戦では、韓国軍で唯一橋頭保作戦に参加。1951年5月、大関嶺を固守し、第1軍団の反撃に寄与した。
1952年3月、歩兵学校戦術課長。1952年8月、第5師団参謀長。1953年5月、第5師団副師団長。同年12月、准将に昇進。休戦後の南原地区のゲリラ討伐作戦に参加。
1954年、諜報部隊長。1955年、輸送監。1956年7月、首都師団長。1959年4月15日、監察監[2]。1959年12月、少将に昇進。1960年、第2訓練所長。1961年、国防大学院修了。同年5月、軍事革命委員・国家再建最高会議最高委員・内務部長官。1963年7月、監査院長。1964年8月、第6軍団長。1966年1月、戦闘兵科教育司令官、中将に昇進。1968年2月、陸軍参謀次長[3]。同年8月、第2軍司令官。1969年5月、第1軍司令官。1970年8月、大将に昇進。1972年5月、合同参謀本部議長[4]。
1975年3月、予備役編入。その後は実業界に入り、同年アジア自動車会社社長に就任。1976年4月、アジア自動車会社会長。1977年、大韓重石鉱業公社(대한중석)社長。
賞勲
[編集]- 太極武功勲章 - 1953年11月3日[5]
- 乙支武功勲章 4回
- 忠武武功勲章 8回
- 花郎武功勲章
- 保国勲章天授章
- 保国勲章国仙章
- 保国勲章統一章
- 大統領表彰 2回
- 一等白象勲章
- スペイン十字武功勲章
- トルコ勤務功労勲章
- 大綬雲麾勲章 - 1974年11月26日[6]
- インドネシア特別功労勲章
出典
[編集]- ^ “(10)청주 한씨(淸州韓氏)-642,992명” (朝鮮語). 서울이코노미뉴스 (2014年7月6日). 2022年8月16日閲覧。
- ^ “政府人事” (朝鮮語). 부산일보. (1959年4月17日) 2019年11月1日閲覧。
- ^ “육참차장에 한신중장” (朝鮮語). 부산일보. (1968年2月26日) 2019年11月1日閲覧。
- ^ “[새 인물] 전형적 야전군장성 합참의장 한신 대장” (朝鮮語). 부산일보. (1972年5月31日) 2019年11月1日閲覧。
- ^ “五將星에 勳章授與” (朝鮮語). 부산일보. (1953年11月6日) 2019年11月1日閲覧。
- ^ “我政府贈勳韓國合同參謀會議議長韓信上將”. 中央通訊社影像空間 2015年12月3日閲覧。
参考文献
[編集]- 佐々木春隆『朝鮮戦争/韓国篇 上巻 建軍と戦争の勃発前まで』原書房、1976年。
外部リンク
[編集]公職 | ||
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先代 曺在千 |
大韓民国内務部長官 第26代:1961年 - 1962年 |
次代 朴璟遠 |
先代 李元燁 |
大韓民国監査院長 第2代:1963年 |
次代 林承説 |
軍職 | ||
先代 文亨泰 |
韓国陸軍第2軍司令官 第11代:1968年 - 1969年 |
次代 蔡命新 |
先代 徐鐘喆 |
韓国陸軍第1軍司令官 第11代:1969年 - 1972年 |
次代 崔世寅 |
先代 沈興善 |
韓国陸軍合同参謀本部議長 第13代:1972年 - 1975年 |
次代 盧載鉉 |