韓駿傑
韓 駿傑(かん しゅんけつ、繁体字: 韓駿傑; 簡体字: 韩骏杰; 繁体字: 韓駿傑; 拼音: Hán Jùnjié; ウェード式: Han Chün-chie、1894年(清光緒20年) - 1976年(民国65年)2月9日)は、中華民国(台湾)の政治家・司法官。別名は俊傑。号は致千。祖籍は直隷省永平府昌黎県だが、吉林将軍管轄区白都納副都統管轄区に生まれる。
事績
[編集]吉林省立墾殖大学予科、吉林法政専門学堂法律本科で学ぶ。学堂在学中の1913年(民国2年)、国民党に加入した。1917年(民国6年)に卒業し、吉林省会警察庁で司法・行政関連の任務に就く。1921年(民国10年)、第3期吉林省議会議員に当選した。1925年(民国14年)夏、国民軍の将軍である甘粛督軍劉郁芬の下で中校軍法官、定西県長、皋蘭県長、省審判庁長を歴任する。1927年(民国16年)6月、省政府委員兼司法庁庁長に昇進し、後に甘粛省高等法院院長に移った。このほか中国国民党蘭州市党部執行委員も務め、1931年(民国20年)冬まで甘粛省で活動している。[1]
1932年(民国21年)、韓駿傑は国民政府軍事委員会参議、豫鄂皖三省剿匪総司令部少将参議に任命される。1935年(民国24年)4月、河南省第9区行政督察専員兼保安司令に起用された。翌年、軍事委員会中将参議へ移り、さらに冀察政務委員会顧問に任ぜられて北平・天津に赴任している。この任務の間、日本へ赴いてスパイ活動も展開した。1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、変装して北平・天津から脱出している。[1]
1938年(民国27年)10月、韓駿傑は監察院監察委員に起用され、軍事委員会第2・第3・第5巡察団で任務に就いている。1945年(民国34年)9月、黒竜江省政府主席に抜擢されたが、翌年3月には早くも黒竜江省から逃走し、現地で実際に任を果たすことはできなかった。[2]1947年(民国36年)10月、国民政府主席東北行轅政務委員会委員となる。国共内戦で国民党の敗北が決まった頃に台湾に逃れた。[1]
台湾では1950年(民国39年)12月に行政院設計委員会委員に任命される。1952年(民国41年)3月、司法院大法官に起用され、翌月には司法院法規委員会顧問も兼任した。1954年(民国43年)10月、光復大陸設計研究委員会委員も兼任し、1958年(民国47年)に任期満了で大法官の地位を退いている。1976年(民国65年)2月9日、台北市で病没。享年83。[3]
注
[編集]著作
[編集]- 『西北游記』
- 『青海漫談』
- 『萬壽山後被俘記』
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(国民政府)
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