青江秀
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青江 秀(あおえ ひいず、1834年(天保5年) - 1890年(明治23年))は、日本の官僚。阿波国(現在の徳島県阿南市)出身。
生涯
[編集]1834年(天保5年)に阿波国那賀郡西方村(現在の徳島県阿南市長生町)に生まれる。幼名は慎一[1]。
1864年(元治元年)に何礼之が長崎の自邸で英語の私塾を開くと、巻退蔵(のち前島密)、林謙三(のち安保清康)、瓜生雷吉(のち瓜生震)らその他数十名とともに塾生として学ぶ[2]。
1871年(明治4年)に友人で当時紙幣頭の芳川顕正の紹介で、紙幣寮へ就職。1873年(明治6年)の紙幣頭代理のときに「郵便葉書」の名称を発案した[1]。また鹿児島県・大蔵省・内務省・海軍省・北海道庁で勤務した。北海道庁では植民地選定、開発計画策定のために全道を調査を行い、「青江理事官諮問回答書」をまとめた[3]。
1890年(明治23年)、死去。墓所は徳島県阿南市の八桙寺[1]。