宮崎恭子
『映画情報』1960年3月号より | |
本名 | 仲代 恭子(旧姓:宮崎) |
別名義 |
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生年月日 | 1931年5月15日 |
没年月日 | 1996年6月27日(65歳没) |
出生地 | 日本・長崎県長崎市 |
民族 | 日本人 |
ジャンル | 演出家・女優・脚本家 |
活動期間 | 1950年 - 1996年 |
宮崎 恭子(みやざき やすこ、1931年5月15日 - 1996年6月27日)は、日本の演出家、女優、脚本家。無名塾創設者。本名:仲代 恭子(旧姓:宮崎)。脚本家としての筆名(別名)として隆 巴(りゅう ともえ)を持つ。夫は俳優の仲代達矢[1]、妹は元フジテレビのアナウンサーでニュースキャスターの宮崎総子。
来歴・人物
[編集]両親とも広島県呉市の出身[2][3][4]。母方の祖父は第九代呉市長・勝田登一[5]。裁判官だった父親の赴任先・長崎県長崎市で生まれ、父親の転任により、4歳まで長崎で、その後小学校2年生まで福岡市で、3年生のとき大分市で、4年生から小学校卒業まで再び福岡市で育った[4][6]。1944年、父親が裁判所を辞めて弁護士に転身したため、一家で東京都へ移る[2][4][7]。1945年の東京大空襲で父を東京に残し、母・妹とともに呉の伯父宅に疎開[2][4][8][9]。同年8月、広島原爆を見る[10]。同年9月17日の枕崎台風による呉の大洪水で、実家が土石流に流されて怪我を負うが生き延びる[4]。この年の暮れ、母・妹とともに東京へ戻り、旧制の女子学院に復学。女子学院時代の親友に秦早穂子がいる[4][11]。
1949年初夏、新制女子学院高等学校3年生だった時に小牧バレエ団の公演を見て「女優になろう」と決心する[11]。女子学院を卒業後、1950年に俳優座養成所に入る。卒業後は、同期の小沢昭一らと劇団新人会を結成。女優として活躍する。
1957年に、俳優座養成所の後輩だった仲代達矢と舞台の共演をきっかけに結婚。以後は脚本家に転じ、舞台演出も手がけた。1975年からは夫とともに、俳優を育成する無名塾を主宰した。ヘンリック・イプセン作の『ソルネス』の演出で1980年度芸術祭優秀賞を受賞。
1995年夏の無名塾の全国公演中に体調不良を訴え、膵臓がんと判明。1996年6月27日に死去した[12]。65歳没。
脚本
[編集]テレビドラマ
[編集]映画
[編集]出演
[編集]テレビ番組
[編集]- おかあさんといっしょ(NHK総合) - 黎明期のレギュラー。
- 金原二郎ショー(日本テレビ) - 初期のアシスタント。
- モーニングジャンボ奥さま8時半です(1973年11月 - 1974年1月、TBS) - 司会。妹の総子が出産準備のため、ピンチヒッターとして出演[13]。
映画
[編集]- 森は生きている(1956年)
- 世界名作童話 白鳥の王子(1977年の『東映まんがまつり』で公開) - 脚本と声優を担当。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ “仲代達矢89歳が見せる役者魂 「いのちぼうにふろう物語」に主演”. 産経ニュース (2022年9月14日). 2022年9月14日閲覧。
- ^ a b c “特集 生産者と消費者の架け橋を築く女性たちの役割 - インタビュー宮崎総子さん”. 農業協同組合新聞 (2006年1月26日). 2013年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月4日閲覧。
- ^ 大切な人 1996, p. 52, 53, 67, 87, 134-171.
- ^ a b c d e f 高橋豊『幻を追って 仲代達矢の役者半世紀』1998年、毎日新聞社、34-38頁
- ^ 『大切な人』、68頁
- ^ 『大切な人』、100-111頁
- ^ 宮崎総子『宮崎総子のわが家の食卓』、2007年、角川学芸出版、53、141、142、155頁、中国新聞、2007年2月1日、11面
- ^ 『大切な人』、134-171頁
- ^ "届けたいこと…". 仲代奈緒オフィシャルブログ. 2011年6月25日. 2023年2月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月1日閲覧。
- ^ 『幻を追って 仲代達矢の役者半世紀』16、38頁
- ^ a b 高橋豊「わたしの生き方 仲代達也の俳優修行/19」 『毎日新聞』1997年8月29日付朝刊、地方版、東京。
- ^ “仲代達矢「膵臓がんで亡くなった妻・宮崎恭子が残した数々の手紙。遺言を守り『無名塾』を続けてきたから、89歳の今でも舞台に立っていられる」”. 婦人公論. 2023年2月23日閲覧。
- ^ 『福島民報』1973年11月14日付朝刊8面、1974年2月8日付朝刊7面。
参考文献
[編集]- 宮崎恭子『大切な人』講談社、1996年9月1日。ISBN 978-4062083959。