陽雲寺 (埼玉県上里町)
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陽雲寺 | |
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所在地 | 埼玉県児玉郡上里町金久保701 |
位置 | 北緯36度15分52.0秒 東経139度8分3.7秒 / 北緯36.264444度 東経139.134361度座標: 北緯36度15分52.0秒 東経139度8分3.7秒 / 北緯36.264444度 東経139.134361度 |
山号 | 崇栄山[1] |
宗派 | 曹洞宗 |
創建年 | 弘仁11年(820年) |
開山 | 慈覚大師円仁 |
中興年 | 室町時代末期【第1次】、安土桃山時代【第2次】 |
中興 | 斎藤氏【第1次】、河窪信俊【第2次】 |
文化財 | 銅鐘(埼玉県指定有形文化財)、他 |
法人番号 | 5030005009129 |
陽雲寺(よううんじ)は、埼玉県児玉郡上里町にある曹洞宗の寺院。
歴史
[編集]820年(弘仁11年)、慈覚大師円仁によって開山された。当初は「満願寺」という名称であったが、室町時代末期に斎藤氏によって再興し、「崇栄寺」に改称された。しかし、神流川の戦いの兵火で廃寺状態となった。その後、徳川家康の家臣河窪信俊によって再再興され、「陽雲寺」に改称された[2]。
秀姫伝説
[編集]→詳細は「三条の方」を参照
当寺には、下記のような武田信玄の継室三条夫人「秀姫」(以降、「秀姫」とする)の伝説が伝わっている[2]。ちなみに史実では、三条夫人の本名は不明であり、信玄に先立つこと1570年(元亀元年)に亡くなっている。
秀姫は、1568年(永禄11年)の駿河侵攻が開始された頃に出家し、河窪信俊を養育していた。信俊は信玄の甥にあたり、後に徳川家康に召し出されて、当地を所領として与えられた。信俊は秀姫とともに所領に赴き、廃寺状態だった当寺を再興し、秀姫を住まわせた。秀姫は当寺で余生を過ごし、1618年(元和4年)に97歳で世を去ったという。
秀姫が三条家の出身であることから、明治になり三条実美が自筆の扁額や刀を奉納している。
文化財
[編集]- 銅鐘(埼玉県指定有形文化財 昭和39年3月27日指定)[3]
- 十五仏古画(上里町指定有形文化財 昭和37年2月22日指定)[4]
- 古銅正観音立像(上里町指定有形文化財 昭和37年2月22日指定)[4]
- 釈迦如来像(上里町指定有形文化財 昭和37年2月22日指定)[4]
- 銅鐘(上里町指定有形文化財 昭和37年2月22日指定)[4]
- 三条実美公寄贈野剣(上里町指定有形文化財 昭和37年2月22日指定)[4]
- 伝武田信玄・陽雲院夫妻画像(上里町指定有形文化財 昭和49年2月22日指定)[4]
- 陽雲寺中世文書(上里町指定有形文化財 昭和49年2月27日指定)[4]
- 陽雲院之墓(上里町指定史跡 昭和37年2月22日指定)[4]
- 畑時能供養祠(上里町指定旧跡 昭和37年2月22日指定)[4]
交通アクセス
[編集]- 神保原駅より徒歩28分。