陸希道
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陸 希道(りく きどう、生年不詳 - 523年)は、北魏の官僚・軍人。字は洪度。本貫は河南郡洛陽県。
経歴
[編集]陸叡の長男として生まれた。容貌風体にすぐれ、髭の美しいことで知られた。経書や史書を読んで、興趣ある文章を作った。中散を初任とし、通直郎に転じた。497年(太和21年)、父が反乱を計画した罪で殺害されると、希道は連座して遼西に流された。後に洛陽に帰還し、従軍を志願した。軍功により給事中に任じられ、司徒記室・司空主簿に転じた。503年(景明4年)、元英が南朝梁の義陽を攻撃すると、希道はその補佐をつとめた。504年(正始元年)、義陽を陥落させると、功績により淮陽男の爵位を受け、諫議大夫に任じられた。学識を買われて、新令制定の議論に参与した。廷尉少卿となり、龍驤将軍・南青州刺史として出向した。後に龍驤将軍のまま梁州刺史に転じた。さらに東夏州刺史に任じられたが、受けなかった。北中郎将となり、前将軍・郢州刺史に転じた。520年(正光元年)、柔然の阿那瓌が北魏に亡命してくると、希道は使主となり、阿那瓌を迎えた。後に平西将軍・涇州刺史となった。523年(正光4年)、在官のまま死去した。
子女
[編集]- 陸士懋(字は元偉、東魏の天平年間に祖父の鉅鹿郡開国公の爵位を嗣ぎ、武定年間に平東将軍・営州刺史)
- 陸士宗(字は仲彦、尚書左外兵郎中、河陰の変で殺害された)
- 陸士述(字は幼文、符璽郎中、河陰の変で殺害された)
- 陸子彰(字は明遠、従叔の陸昕之の後を嗣いだ)
- 陸士廉(字は季脩、建州平北府長史、永安末年に爾朱世隆の攻撃を受けて殺害された)
- 陸士佩(字は季偉、武定年間に安東将軍・司州治中)