陸宗輿
陸宗輿 | |
---|---|
Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: |
1876年7月5日 (清光緒2年閏5月14日) |
死去: |
1941年(民国30年)6月1日 中華民国北京特別市 |
出身地: | 清浙江省杭州府海寧州 |
職業: | 政治家・外交官 |
各種表記 | |
繁体字: | 陸宗輿 |
簡体字: | 陆宗舆 |
拼音: | Lù Zōngyú |
ラテン字: | Lu Tzung-yü |
和名表記: | りく そうよ |
発音転記: | ルー ゾンユー |
陸 宗輿(りく そうよ)は清末民初の政治家・外交官。北京政府・安徽派の要人で、曹汝霖とともに「新交通系」の指導者と目される。五四運動の際には、その親日的な施策・姿勢から、学生や世論の批判の対象となった。字は閏生、潤生。
事績
[編集]清末の活動
[編集]商人の家庭に生まれる。1896年(光緒22年)、南京文正書院に入学し、張謇に師事した。1899年(光緒25年)、自費により日本に留学し、早稲田大学高等師範部法制経済科で学んだ[1]。1902年(光緒28年)に帰国し、北京で税務管理を担当する。さらに進士館と警官学堂で教習(教官)に任じられた。
1905年(光緒31年)、徐世昌が巡警部尚書に就任すると、陸宗輿は巡警部主事として起用されている。同年冬、載沢らの海外憲政考察に参賛として随従した。1907年(光緒33年)、東三省が創設され、徐世昌が初代東三省総督となると、陸もこれに随従し、奉天洋務局総弁兼管東三省塩務に任じられた。
1908年(光緒34年)、候補四品京堂に昇格する。翌年、徐世昌が北京に戻ると、陸宗輿もこれに従い、憲政編査館館員に任じられた。1910年(宣統2年)、資政院議員に選出される。翌年秋には、交通銀行協理、印鋳局局長をつとめた。袁世凱が内閣を組織すると、度支部右丞と副大臣代理を兼ねた。
民初外交の現場で
[編集]中華民国成立後、総統府財政顧問に任用される。1913年(民国2年)、参議院議員に当選した。同年12月、駐日全権公使として日本に赴任した。
翌年秋に日本が山東出兵を開始すると、陸宗輿は袁世凱の意を受けて中国の中立を日本側に伝達している。1915年(民国4年)1月、大隈重信内閣が対華21ヶ条要求を袁に突きつけてくると、外交部次長曹汝霖が北京で駐華日本公使日置益との交渉に臨む。その一方で陸は、東京で外相加藤高明と会談を重ねた。5月25日、最終的に袁は要求を受諾している。
同年、袁世凱が皇帝即位を図ると、陸宗輿はその意を受けて大隈内閣と交渉し、秘密裏に袁への支持を取り付けた。しかし、次第に袁が護国戦争などで不利な立場になると、大隈内閣は袁への支持を取り消している。1916年(民国5年)6月、袁の死去直後に、陸は本国へ召還された。
五四運動での失脚
[編集]同年秋、陸宗輿は交通銀行股東会長に就任した。翌年1月、曹汝霖が交通銀行総理に就任すると、西原借款の交渉のため、陸が日本に赴いて首相の寺内正毅と会談している。その後、日本側の要望も入れる形で、陸と駐日公使章宗祥は、段祺瑞に対独宣戦を助言した。
1917年(民国6年)8月、西原借款を運用するために中日合弁の中華匯業銀行が成立すると、陸宗輿がその総経理に就任した。翌年10月、段が下野に追い込まれると、陸はその直前に幣制局総裁に任命されている。1919年4月には、察哈爾竜煙鉄鉱公司督弁も兼任した。陸は曹汝霖と連動する形で交通・財務部門で勢力を拡大し、「新交通系」の指導者と目されるようになった。
しかし、西原借款などの親日的政策は国内世論の反発を買うことになった。同年5月の五四運動において陸宗輿は曹汝霖・章宗祥とともに売国奴と糾弾された。そして、デモ隊が曹の邸宅を襲撃し、章を殴打する事件が起きたが、このとき陸は身を隠して難を避けている。6月、陸は政府の職務を罷免された。しかし、中華匯業銀行総理の地位には留任している。
その後の陸宗輿は臨時参政院参政などを歴任し、北京政府崩壊後は天津や北平に寓居した。1939年(民国28年)1月30日に呉佩孚が「和平救国宣言」を発表した際には、陸も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している[2]。翌1940年(民国29年)3月、南京国民政府(汪兆銘政権)において、行政院顧問に就任した。
1941年(民国30年)6月1日、北平にて病没。享年66(満64歳)。
注
[編集]参考文献
[編集]- 鄭則民「陸宗輿」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第3巻』中華書局、1981年
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『早稲田大学校友会会員名簿 昭和十年用』早稲田大学校友会、1934年。