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陳泰 (明)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陳 泰(ちん たい、1403年 - 1469年)は、明代官僚軍人は吉亨、は拙庵。本貫邵武府光沢県

生涯

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1403年永楽3年)2月29日、陳封の子として生まれた。幼いころ母方の祖父の曹氏の家で養育され、曹姓を称した。1423年(永楽21年)、曹泰は郷試に首席で及第し、解元となった。1427年宣徳2年)、安慶府学訓導に任じられた。

1437年正統2年)、曹泰は廷臣共同の推薦により、江西道監察御史に抜擢され、貴州巡按をつとめた。官軍が麓川の乱を討つにあたって、現地の兵2000を道案内として徴用したが、敗戦したため、功績を横取りして殺そうとした。曹泰は上奏してこれを止めさせた。山西巡按に転じた。ときに百官の俸給は薄く、汚職が横行していたことから、曹泰は昇給を請願する上書をおこなったが、阻止されて行われなかった。1441年(正統6年)夏、曹泰は「連年災害が続いておりますが、咎は廷臣にあります。御史給事中に命じて大臣を糾弾させ、職務不適格な者を罷免するようお願いします」と言上した。英宗はこれに従った。これにより御史の馬謹らが吏部尚書の郭璡ら数十人を弾劾した。ほどなく曹泰は山東巡按として出向した。

1444年(正統9年)、曹泰は四川按察使に抜擢され、鎮守都御史の寇深と険悪になった。1447年(正統12年)8月、武職を専断し、輿夫を殴って死なせたとして、参議の陳敏に弾劾された。刑部に逮捕されて獄に下され、斬刑を論告された。曹泰は弁明の上奏をおこない、大理寺卿の兪士悦もまた具体的な事情を奏聞したが、いずれも英宗に聞き入れられなかった。

1449年(正統14年)8月、郕王朱祁鈺監国すると、曹泰は赦されて官に復帰した。于謙の推薦により紫荊関を守備した。エセン・ハーンが侵入すると、曹泰は紫荊関を守りきれず、再び死刑を論告された。景泰帝(朱祁鈺)に赦免され、事官とされた。総兵官の顧興祖に従って関隘を築くのに尽力した。1450年景泰元年)、大理寺右少卿に抜擢され、白羊口を守備した。4月、都督同知の劉安が寧遠伯任礼に代わって涿州真定保定の諸城の軍備を巡視すると、曹泰は右僉都御史としてその軍務に参与するよう命じられた。曹泰は姓を陳にもどした。1452年(景泰3年)、陳泰は保定六府巡撫を兼ねた。1453年(景泰4年)、倒馬関提督を兼ねた[1]1454年(景泰5年)、運河の治水工事を監督するよう命じられた。儀真から淮安にいたるまで、溝180里を浚渫し、決壊した9か所を塞ぎ、堰3か所を築いた。6万人を動員して、数カ月で工事を完了させた。1456年(景泰7年)、蘇松巡撫に転じた。

1457年天順元年)、讒言により陳泰は蘇松巡撫の官を罷免され、広東按察副使に左遷された。立て続けに父母が死去し、辞職して喪に服した。1462年(天順6年)、四川で反乱が起こると、陳泰の赴任を望む声が上がり、陳泰は官に復帰して、左僉都御史となり、四川巡撫をつとめた[2]1464年(天順8年)、右副都御史に進み、漕運総督をつとめ、淮揚四府巡撫を兼ねた。1465年成化元年)10月、致仕した[3]1469年(成化5年)10月22日、家で死去した[4]。享年は67。著書に『拙庵集』25巻[5]があった。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻31
  2. ^ 『国榷』巻33
  3. ^ 『国榷』巻34
  4. ^ 墓碑銘による。『明史』陳泰伝は成化6年死去とし、『国榷』巻36は成化6年6月死去とする。
  5. ^ 『明史』芸文志四

参考文献

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  • 『明史』巻159 列伝第47
  • 副都御史陳公墓碑銘(徐紘『明名臣琬琰録』巻8所収)