陳普才
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陳 普才(ちん ふさい、生没年不詳)は、元末から明初にかけての人物。陳漢の初代皇帝陳友諒の父にあたる[1]。
生涯
[編集]復州玉沙県の漁師[2]。三男の陳友諒が沔陽府の獄吏の職を捨てて出歩いているのを嘆き[2]、陳友諒が四男の陳友仁と共に[2]徐寿輝の元へ向かおうとした時は止めようとしたが、陳友諒は聞かなかった[1]。陳友諒が皇帝に即位するとその元へ赴いた[1]。大定3年(1363年)に陳友諒が鄱陽湖の戦いで朱元璋に敗死する[1]と、その次男の陳理が即位したが、徳寿2年(1364年)、朱元璋に都の武昌を攻められて降伏[1]し、陳漢は滅亡した。
降伏後、陳普才は朱元璋から承恩侯に封じられた[1][3]。洪武5年(1372年)に孫の陳理が高麗へ移るよう洪武帝朱元璋に命じられると、陳普才はそれに伴って滁州に赴いた[1][2]。