コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

陳其采

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陳其采
Who's Who in China Suppl. to 4th ed. (1933)
プロフィール
出生: 1880年10月21日
光緒6年9月18日)
死去: 1954年民国43年)8月7日
中華民国の旗 台湾
出身地: 清の旗 浙江省湖州府(現在の呉興区
職業: 軍人・政治家・銀行家・実業家
各種表記
繁体字 陳其采
簡体字 陈其采
拼音 Chén Qícǎi
ラテン字 Ch'en Ch'i-ts'ai
和名表記: ちん きさい
発音転記: チェン チーツァイ
テンプレートを表示

陳 其采(ちん きさい)は清末中華民国台湾)の軍人・政治家・銀行家・実業家。藹士陳其業陳其美の弟で、陳果夫陳立夫兄弟(其業の子)の叔父にあたる。当初は革命派の軍人だったが、第二革命失敗後は銀行家・実業家などに転じた。別号は涵廬

事績

[編集]

革命派としての活動

[編集]

上海中西書院、金陵同文館、江南儲材学堂などで学ぶ。1895年光緒21年)、日本に留学し、成城学校を経て陸軍士官学校で学んだ。卒業後の1903年(光緒29年)に帰国し、長沙武備学堂総教習、同学堂監督、新軍統帯などを歴任する。その間、密かに革命派の工作に従事している。後に南京の新軍第9鎮へ異動し、軍諮府第3庁庁長に昇進した。さらに保定陸軍軍官学校に赴任して、監督となっている。

辛亥革命が勃発すると、革命派の徐紹楨率いる南京攻略軍に参謀として参加した。中華民国成立後の1912年民国元年)に大総統府諮議、江蘇都督府参謀庁庁長となっている。翌1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)では、兄の陳其美に従い江南機器局攻撃に参加したが、敗北に終わり、日本に亡命している。

銀行界・実業界への転向

[編集]
陳其采別影
『最新支那要人伝』(1941年)

これ以後、陳其采は軍人からは事実上引退し、主に実業界・政界での活動に軸足を移す。帰国後は中国銀行総文書に任ぜられ、さらに張謇の招聘に応じて大豊公司総経理となっている。後に中国銀行に戻り、杭州分行副行長(行務代理)に任ぜられた。1924年(民国13年)、湖州旅滬同郷会(湖州出身者による上海での互助会)が結成されると、陳が理事長に選出されている。

1926年(民国15年)、陳其采は江浙財政委員会主任委員、浙江政治分会委員となる。翌年5月、浙江省政務委員会委員に任ぜられ、財政庁庁長を兼任した(10月に省政務委員会が省政府に改組されても留任)。6月、国民政府導准委員会副委員長となり、さらに財務処処長も兼ねている。1928年(民国17年)11月、江海関監督となり、その翌年4月には上海市臨時政治委員会委員となった。

1930年(民国19年)3月、陳其采は江蘇省財政庁庁長に任ぜられる。同年12月には国民政府主計処籌備委員会主任となり、翌年3月の主計処成立とともに主計長に任ぜられた。その後も、中央銀行常務理事、中国銀行董事、交通銀行常務董事(後に董事長代理)、中英庚款保管委員会董事、中国農民銀行常務董事など銀行界で要職を歴任している。1941年(民国30年)9月に行政院水利委員会委員、1944年(民国33年)3月に中央銀行常任理事となった。

戦後の1946年(民国35年)10月に陳其采は国民政府委員に任ぜられ、後に総統府国策顧問となる。国共内戦の末期に台湾に逃れた。

1954年(民国43年)8月7日、台湾にて病没。享年75(満73歳)。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。