阿波伎
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阿波伎(あわぎ、生没年不詳)は、古代の済州島に存在した国家・耽羅の王族。661年に耽羅使として倭国(日本)へ派遣された。
記録
[編集]耽羅が日本の歴史書に最初に登場するのは、『日本書紀』巻第十七の、
十二月(しはす)に、南の海中(わたなか)の耽羅人、初めて百済国に通ふ
とある記事で、継体天皇2年(推定508年)のときである[1]。一方で高麗時代に編纂された『三国史記』によれば、耽羅は476年に百済の文周王に朝貢し、498年に東城王に服属したとある。しかし、いずれにしても5世紀後半から6世紀初頭にかけて、両国間に服属関係が成立したことが推定される。
阿波伎の名が現れるのは『日本書紀』巻第二十六のみであり、本文には、
耽羅(たむら)、始めて王子(せしむ)阿波伎(あはぎ)等(ら)を遣(まだ)して貢調(みつきたてまつ)る[2]
と記述されている。
『日本書紀』に引用されている『伊吉博徳書』には、続けて津守吉祥を長とする遣唐使の航海記の一部が掲載されている。
辛酉(かのととり)の年(=斉明天皇7年、661年)の正月二十五日(むつき の はつか あまり いつかのひ)に、還(かへ)りて越州(ゑっしう)に到る。四月一日(うづき の ついたちのひ)に、越州より上路(みちたち)して、東(ひむがし)に帰(かへ)る。七日(なぬかのひ)に、行きて檉岸山(ちゃうがんざん=須岸山)の明(みなみ)に行到(いた)る。八日(やうかのひ)の鶏鳴之時(あかつき)を以て、西南(ひつじさる)の風に順(したが)ひて、船を大海(おほうなばら)に放つ。海中(わたなか)に途(みち)を迷(まど)ひて、漂蕩(ただよ)ひ辛苦(たしな)む。九日(ここのか)八夜(やよ)ありて、僅(わづか)に耽羅嶋(たむらのしま)に到る。便即(すなは)ち島人(しまびと)王子(せしむ)阿波伎(あはぎ)等(ら)九人(ここのたり)を招(を)き慰(こしら)へて、同じく客(まらひと)の船に載せて、帝朝(みかど)に献(たてまつ)らむとす。五月二十三日(さつき の はつか あまり みかのひ)に、朝倉(あさくら)の朝(みかど)に奉進(たてまつ)る。耽羅の入朝(にふてう)、此時(このとき)に始(はじま)れり。
1月25日、越州(杭州湾南岸)についた。4月1日越州から出発して東に帰った。7日、檉岸山(ちょうがんざん)の南についた。8日暁、西南の風に乗って船を大海に出した。海上で路に迷い、漂流して苦しんだ。9日8夜してやっと耽羅島についた。島人の王子、阿波伎(あわぎ)ら9人を招きもてなし、使人の船に乗せて、帝にたてまつることにした。5月23日、朝倉の朝廷にたてまつった。耽羅の人が入朝するのは、この時に始まった。 — 宇治谷孟 訳、日本書紀、斉明天皇七年五月二十三日条
当時、耽羅は服属していた百済の滅亡(660年)により、『唐会要』にあるように唐へ使いを派遣すると同時に上記の通り日本(倭)への使者を送るなど、国の命運をかけて独自の外交を模索していた。『旧唐書』巻第八十四の中の「劉仁軌伝」によると、白村江の戦いにおける降伏者の中に「耽羅国使」がいたことから日本とともに従軍していたことがわかり、百済と地理的に近い耽羅は同国救援拠点の役割を果たしていたものと思われる。
阿波伎が、朝倉橘広庭宮にて斉明天皇あるいは中大兄皇子へ謁見した際に、どのような話があったかについては伝わってはいない。なお、この入貢からほどなくして斉明天皇は崩御している[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本書紀 三』岩波書店〈岩波文庫〉、1994年。
- 『日本書紀 四』岩波書店〈岩波文庫〉、1995年。
- 宇治谷孟 訳『日本書紀 全現代語訳 上』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。
- 宇治谷孟 訳『日本書紀 全現代語訳 下』講談社〈講談社学術文庫〉、1988年。
- 大林太良 編『海をこえての交流』中公文庫〈日本の古代 3〉、1995年。