阪正臣
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阪 正臣(ばん まさおみ、安政2年3月23日(1855年5月9日) - 昭和6年(1931年)8月25日)は、 歌人、書家、古筆研究家、宮内省御歌所寄人。現在の愛知県名古屋市生まれ。正四位勲三等。
本名は坂 正臣[1]。幼名、政之介、字は従叟、号は茅田、観石、桃坪など、居を樅屋と称す。
略歴
[編集]- 和歌を富樫広厚に学ぶ。
- 鶴岡八幡宮、伊勢神宮などに奉仕。
- 宮内省御歌所に入り、宮廷歌人として皇族たちに和歌や書を教えた。
- 華族女学校教授、御歌所寄人・主事、等を歴任。
- 墓所は青山霊園立山墓地1-ロ-4-5で、荒れている。
- 子息である阪匡身は、父の遺稿を整理して「樅屋全集」を編纂したが海軍軍人でもあり、海軍少将の時に戦艦「扶桑」艦長を務め、昭和19年10月25日にレイテ沖海戦のスリガオ海峡の戦いで扶桑が米艦隊に撃沈された際、運命を共にした。戦死後海軍中将。
功績
[編集]所属団体
[編集]著書
[編集]- 「樅屋詠草」
- 「樅の小枝」
脚註
[編集]- ^ 20世紀日本人名事典『阪 正臣』 - コトバンク
- ^ 林淳『近世・近代の著名書家による石碑集成-日下部鳴鶴・巌谷一六・金井金洞ら28名1500基-』収録「阪茅田石碑一覧表」(勝山城博物館 2017年)