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闘技者トマスの書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

闘技者トマスの書は、グノーシス文書の中の説教文書の一つである。1945年エジプトで見つかった『ナグ・ハマディ写本』群に含まれていた文書で、本文中に、救い主トマスに語った隠された言葉をマタイが書き記した、とあり、後書きに、トマスの書・闘技者記す・完全なる者たちへ、と書き記されているので、この名がある。グノーシス主義的要素を含有したままで、正統的教会から、「異端」として排斥されていない数少ない文書の一つである[1]

成立年代

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二世紀半ばに成立したと見なされている『トマスによる福音書』をこの本の著者が知っていた可能性があることから、二世紀の後半から、三世紀の前半頃とされている[2]

信念とその系譜

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「異端」として排斥されていない信念

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ナザレのイエスの説いた教えは、正統的教会によって、おおむね下記のように教義化した。

  • イエス・キリストは、処女マリアから生まれた神の一人息子であると信じる。
  • イエスを救い主と信じる人は、神の国が到来したら、新しい命がもらえて罪から救われる。なぜなら、罪がないナザレのイエスは、死刑になったが、死んでから三日たってからまた生き返った。そして彼は天に昇って行って、神の右に座ったからである。そう信じる者は、救われる・・・・。

こうした他力救済的な宗教思想にとっては、闘技者トマスの、「自己を知った者は同時にすでに万物の深遠について認識に達しているからである」[3]というような「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている[4]

自力救済的な思想が異端とされなかった理由としては、ナザレのイエスの教えの中には、元々、心の中の悪に対しての認識を深めることが要求されていたことがあげられる。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫貪欲悪意、奸計、好色、よこしまな眼、涜言、高慢、無分別などがあげられている[5][注 1]。マタイ15:16には、「口の中に入ってくるものは人間を汚さない」というイエスの認識を全く理解できなかったペテロが、質問をしてイエスに叱責されるというエピソードが載っている。その時に、イエスはペテロに対して、自分の弟子であるのに、「今なお悟りがないのか。」と指摘している。ここの箇所からわかることは、ナザレのイエスは、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは、一種の悟りであるという自力救済的な教えを説いていたということである。これは、「自己を知った者は同時にすでに万物の深遠について認識に達しているからである」という本書の言葉に、つながっているようにも見える。また、欲情を覚えてしまうものは、心の中ですでに姦淫をしたのである、という内面的な悪想念についての認識を促すと思える教えも存在している[6]

ナザレのイエスにとっての救済とは、罪ではなく、悪よりの救済であった[7]。そのように見るならば、グノーシス主義に影響を受けて変化したキリスト教もあれば、真の知識に達したナザレのイエスの直伝を受けて、自己認識を深めていったことで、グノーシス主義と見做されて、異端として締め出された者もいたという見方もできる。

内容と信念

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  • 1、序、救い主は、真理について、弟子の個別指導を行うことがあった。(マタイが通りかかって話を聞いた内容を書きとめたのがこの書である。)
  • 2、イエスの友と呼ばれる人は、自らを測り知らなければならない。
  •  自分が何者なのか、いかにして存在しているのかについて、知らなくてはならない。
  •  自分がいかなる存在になるかを、学び知りなさい。
  •  イエスの兄弟と呼ばれている人は、自分自身について無知であってはならない。
  •  私は真理の知識である[注 2]
  •  私が真理の知識であることを、誰もが認識することができる。
  •  今だ自分自身について無知であっても、すでに認識にたっすることはできる。
  • 3、自己を知った者は、同時に、すでに万物の深遠についての認識に達している。
  • 5、変化するものは滅し、滅びる。肉体が滅びるのと同じように、万物は変化し、滅びてゆく。
  • 6、万物の深遠や真理の知識は、見ることができず、説明することも困難である[注 3]
  • 7、太陽は人間が修行するために照らしている。
  • 8、欲情や肉欲は肉体に属する火炎である。人の心を酔わせ、魂を混乱させる。人々の霊を焼き焦がす。
  •   真の知恵から真理を求める者は誰でも、自らを翼にして飛翔し、「欲情」から逃れることが出来る。
  • 9、これは完全なる者たちの教えである。もし、あなたたちが完全になろうと思うならば、あなたたちはこれらのことを守るであろう[8]
  • 11、幸いだ、賢者は。彼がそれを見出した時に、彼はその上に永遠に安息し、彼を動揺させる者どもを恐れることがなかった。
  • 12、本来的自己の中に安息することは、益になる。そして、それはお前たちにとって善いことなのだ。
  • 22、目を覚ましておれ。そして、祈っておれ。
  •   あなたたちが、身体の苦悩と苦難から離れるとき、あなたたちは、善なる者[注 4]から安息を受け、王とともに支配するであろう。

脚注

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注釈

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  1. ^ 「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意」までは、複数形で言われており、それらの具体的な行為が意味されている。「奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別」までは単数形。それらで表される心のあり方に主眼点がある。岩波書店「新約聖書」2004年、P31
  2. ^ 自分の霊的な本質を認識していること。(岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』用語解説 P5)
  3. ^ マタイ11:25にある智者や賢者に隠された「これらのこと」の注として、救いに関した事柄であろうが、詳しくは不明、とある。(岩波書店「新約聖書」2004年、P113)
  4. ^ 太陽を介し、そのよき従者である光を人間に送る神(岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』P57)

出典

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  1. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 説教・書簡』 P380
  2. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』 P382
  3. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』 P42
  4. ^ 岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』 P380
  5. ^ マルコ7-21
  6. ^ マタイによる福音書5-28
  7. ^ マタイ6:13
  8. ^ マタイ5:48

参考文献

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関連項目

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