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閻宝瑟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

閻 宝瑟(えん ほうしつ、1108年 - 1133年)は、北宋徽宗の妃嬪。

生涯

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婉容の位を授けられた。

靖康の変後、に連行され、金軍の多くの兵士に凌辱されて妊娠した。金に到着後は、妊婦だったことを考慮されたため、連行途中で出産した小王婕妤や他の4人の妊娠させられた妃嬪[1]と一緒に、昏徳公(徽宗)のもとに帰された。翌年(金の天会6年)2月27日(1128年4月21日)、男子を産んだが、夭逝したという[2]

金の天会8年(1130年)4月27日、男子の趙柱を産んだ。天会11年(1133年)9月4日、閻宝瑟は25歳で死去した。次男の趙柱は、南宋と金の国交が回復した時(1162年)まで、金で暮らしていたことが伝わっている。

子女

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  • 男子(無名)
  • 趙柱

伝記資料

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  • 『靖康稗史箋證』
  • 『三朝北盟会編』

脚注

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  1. ^ 新王婕妤・才人周春桃・才人狄金奴・才人邵元奴
  2. ^ 昏徳公が殺した(殺させた)と考えられている。