関場茂樹
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せきば しげき 関場 茂樹 | |
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生誕 | 1876年12月29日 |
死没 | 1942年1月7日(65歳没) |
出身校 | 東京帝国大学工科大学土木工学科 |
職業 | 橋梁設計者 |
関場 茂樹(せきば しげき、1876年(明治9年)12月29日 - 1942年(昭和17年)1月7日)は、日本の橋梁設計者。日本の橋梁建設黎明期から橋梁会社技師長として活動し、登録有形文化財[1]の犀川大橋、澱川橋梁などを設計した。
生涯
[編集]青森県出身である。父の忠武は斗南藩権少属[2]を務め、青森県少属を経て、内務省に出仕した。関場は忠武の内務省時代に誕生している[3]。関場不二彦は兄、林権助、大瀬甚太郎は義兄である。
一高[4]を経て、東京帝国大学を卒業。土木工学科の同級生に八田嘉明がいる[5]。関場は渡米してアメリカン・ブリッジで5年弱の研鑽を積む。樺島正義は同僚で、飲み仲間でもあった[6]。20世紀初頭の米国では橋梁建設が盛んに行われ、日本の橋梁関係者の関心を集めており、増田淳も渡米している[7]。 関場は創業間もない横河橋梁製作所で技師長に就任し、「同社の橋梁事業に先鞭をつけた」[8]と評価される仕事を成し遂げていく。この時期の関場の手になる山家橋のアーチは明治時代の橋として最大のものである[7]。また『標準橋梁仕様書』を出版している。この書は橋梁示方の書としては廣井勇の「橋梁示方書」に次ぐ早い時期のものであった[9]。
日本橋梁技師長(専務)に転じてからは、岩井橋、犀川大橋を設計した。前者は現存する日本の鋼製アーチ橋としては本町橋(大阪府)についで二番目に古い[10]。その後大阪で設計事務所を営み[* 1]、澱川橋梁を設計する。この橋は単純トラス橋としては現在でも日本最大で[11]、径間長は約165mである。晩年は松尾橋梁で取締役技師長を勤めた。
橋、講演等
[編集]- 設計に係る橋
- 講演など
- 『欧米ニ於ケル橋梁技術ノ進歩』 工学会誌 第28輯[* 2]
- 『続欧米ニ於ケル橋梁技術ノ進歩』 工学会誌 第28輯
- 『鋼索型跳上橋の一考案』土木学会誌 第十五巻第四号
- 『澱川橋梁工事報告概要』 土木学会誌第十六巻第八号(浅井郁爾、江田良治との共著)
- 『審美的橋梁の設計について』(『工業界』、1913年)[* 3]
- 『標準橋梁仕様書』(丸善)
脚注
[編集]- 注釈
- ^ 大正時代末には阿部美樹志、樺島、増田、関場の個人事務所が開設されている。中井祐は彼ら渡米経験を有する者の共通の行動から、アメリカにおけるプロの橋梁エンジニアの「新鮮な魅力」、自由主義思想の影響を受けた者の近代的職能意識の存在を指摘している。
- ^ 中井はこの講演から関場を「日本の近代橋梁技術者で、橋の美観について明快に言及し、記録として残した最初」の人物と推測している。
- ^ H・G・Tyrrell『Artistic Bridge Design』の抄訳
- 出典
- ^ “国指定文化財等データーベース”. 文化庁. 2014年5月25日閲覧。
- ^ 『慶應年間 会津藩士人名録』(勉強堂書店)
- ^ 秦温信『北辰の如く 関場不二彦伝』(北海道出版企画センター)48頁
- ^ “JSCE 橋梁史年表 関場茂樹”. 土木学会附属図書館. 2014年5月25日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学卒業生氏名録』(1926年)
- ^ 『近代日本の橋梁デザイン思想』182頁。
- ^ a b “鋼橋設計図面に関する研究開始にあたって”. 土木学会. 2014年5月25日閲覧。
- ^ 『近代日本土木人物事典』184頁
- ^ 『近代日本の橋梁デザイン思想』40頁、注記57
- ^ “橋百選”. FORUM8. 2014年5月25日閲覧。
- ^ “歴史的橋梁 T5-013澱川橋梁”. 土木学会. 2014年5月25日閲覧。
参考文献
[編集]- 高橋裕、藤井肇男 著『近代日本土木人物事典』鹿島出版会、2013年。
- 中井祐『近代日本の橋梁デザイン思想』東京大学出版会、2005年。ISBN 4-13-061129-1(著者は東京大学大学院工学系研究科教授)