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門上千恵子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
門上チエ子から転送)

門上 千恵子(かどがみ ちえこ、1914年12月8日[1] - 2007年8月6日)は、愛媛県出身の弁護士日本における初めての女性検事門上チエ子門上チヱ子とも表記する。旧姓、福枡[1]論理学東京経済大学名誉教授である門上秀叡は夫[1]。三男の門上光照京都造形芸術大学芸術学部教授

経歴

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愛媛県伊予郡松前町で米屋の長女として生まれる[1]。愛媛県立松山高等女学校(現・愛媛県立松山南高等学校)から広島県立女子専門学校(現・県立広島大学)国文科を経て、1939年九州帝国大学法文学部法律学科を卒業[1]。在学中、1937年にはローマ法の研究で帝国学士院から賞を受ける[1]。岡山県林野高等女学校(現・岡山県立林野高等学校)の英語教諭を経て、1940年に九州帝国大学へ戻り、1944年まで法律学研究室の副手(のち助手)として勤務[1]。この間、1943年、現在の司法試験にあたる高等文官試験司法科試験に合格し上京[1]1944年、結婚により門上姓となる[1]。戦前の日本では女性の検事任官が認められていなかったが、戦後、1949年11月15日東京地方検察庁検事に任官。日本における女性検事第1号となる。1950年10月7日、婦人人権擁護同盟の結成に参加。千葉地方検察庁を経て東京地方裁判所に公判検事として勤務し、主に少年事件を担当していた。

1962年2月7日放送のクイズ番組「それは私です」(NHK総合テレビジョン)に出演[2]

1964年7月、三鷹市下連雀の自宅で高校生の長男が、同じく高校生の次男の頭をで割って殺害する事件が起こる[3]。「親と子は別個の人格」として、兄弟は同じ敷地内に建てられた離れで暮らし、家族で一緒に食事をすることもなかったため、両親は兄弟の対立に全く気づかなかった[3]。この事件によって検事を退官する。

のち市川房枝の奨めを受けて、1965年弁護士登録。東京都新宿区で門上チエ子法律事務所を開業。スーパーフリー事件の公判では主犯の弁護人を務めた。その他、覚醒剤の自己使用で起訴されたミュージシャン岡村靖幸の裁判(2005年)でも弁護人を担当するなど、90歳を過ぎても現役の弁護士として活動していたが、2007年8月、大腸癌のため東京都内の自宅で死去した[4]

著書

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  • 『愛は法をこえて』(東西文明社、1952年
  • 『女性犯罪』(春秋社、1952年

関連文献

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  • 『女たちの20世紀・100人 ―姉妹たちよ』(集英社、1999年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 白梅学園の先駆者たち⑲門上千恵子 - 女性法律家のパイオニア
  2. ^ NHK. “それは私です”. テレビ60年 特選コレクション | NHKアーカイブス. 2019年1月20日閲覧。
  3. ^ a b 兄弟対立の果てに...! 「スーフリ事件」担当女性弁護士の家庭で起きた悲劇とは? (2015年9月8日)”. エキサイトニュース. 2020年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年5月26日閲覧。
  4. ^ 門上チヱ子さん死去(日本初の女性検事、弁護士)

外部リンク

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