長谷於保
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長谷 於保(はせ の おほ、生没年不詳)は、奈良時代後期の貴族。氏は長谷のちに文室。姓は真人。官位は従五位上・備後守。
出自
[編集]のちに文室真人に改姓していることから、天武天皇の皇子である長親王の後裔と想定される[1]。延暦24年(805年)田村王・小田村王・金江王・真殿王・河原王ら8人が長谷真人の氏姓を与えられている[2]。
経歴
[編集]従五位下に叙爵後、称徳朝の神護景雲2年(768年)武蔵員外介に任官する。
光仁朝の宝亀2年(771年)散位頭に任じられ、翌宝亀3年(772年)長谷真人から文室真人に改姓。宝亀8年(777年)若狭守として再び地方官を務める。天応元年(781年)12月の光仁太上天皇の大葬の際には御装束司となった。
桓武朝でも天応2年(782年)中務少輔、延暦3年(784年)備後守と京官と地方官を交互に務め、延暦4年(785年)には従五位上に昇叙されている。延暦6年(787年)備後守に再任された。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:従五位下
- 神護景雲2年(768年) 閏6月3日:武蔵員外介
- 宝亀2年(771年) 7月23日:散位頭
- 宝亀3年(772年) 正月26日:文室真人に改姓
- 宝亀8年(777年) 正月25日:若狭守
- 天応元年(781年) 12月23日:御装束司(光仁上皇崩御)
- 天応2年(782年) 2月7日:中務少輔
- 延暦3年(784年) 3月14日:備後守
- 延暦4年(785年) 正月7日:従五位上
- 延暦6年(787年) 閏5月11日:備後守(重任)