長谷川正長
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 天文5年(1536年) |
死没 | 元亀3年12月22日(1573年1月25日) |
主君 | 今川義元、今川氏真、徳川家康 |
氏族 | 長谷川氏 |
父母 | 父:長谷川元長 |
子 | 正成、宣次、長谷川正吉 |
長谷川 正長(はせがわ まさなが)は、戦国時代の武将。駿河国小川城主、徳一色(田中)城主長谷川氏当主。藤九郎、紀伊守。
略歴
[編集]今川義元に仕えていたが、桶狭間の戦いで義元と父元長が戦死すると続けて今川氏真に仕えた。
しかし永禄13年(1570年)に甲斐国の武田信玄が駿河に侵攻し今川氏が崩壊すると、本拠地を放棄し抵抗する今川氏同様に遠江国へ逃れ、三河国から遠江に進出してきた徳川家康に仕えるようになった。
なお、長谷川氏の嫡流は正長ではなく、元長の子の能長(次郎左衛門)が宗家の当主であったと近年の研究では考えられている(藤枝の鬼岩寺の大檀那として記録が残る)。この能長は武田信玄の侵攻直後の永禄12年(1569年)に武田軍に内通して所領を安堵された。これに同調しなかった一族の藤九郎は徳一色城(田中城)に籠城したために攻城戦になったとされるが、この藤九郎が正長のことと考えられている[1]。
元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いに参加。武田氏に対した徳川軍が大敗する中、奮戦して討死にした。享年37。墓所は焼津市の信香院。
次男の伊兵衛宣次は天正10年(1582年)から家康の小姓を務め、やがて別家を興し旗本となった。この系統の子孫に、江戸時代に活躍した火付盗賊改方の長谷川宣以がいる。
脚注
[編集]- ^ 前田利久「戦国時代の小川と長谷川氏」(初出:『ヤシャンボー』(焼津市南部地区民俗誌、1993年)/黒田基樹 編著『シリーズ・中世東国武士の研究 第二六巻 今川氏親』(戒光祥出版、2019年)ISBN 978-4-86403-318-3) 2019年、P404-407.