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長興寺 (前橋市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長興寺
所在地 群馬県前橋市茂木町26-1
位置 北緯36度24分47.8秒 東経139度09分19.4秒 / 北緯36.413278度 東経139.155389度 / 36.413278; 139.155389座標: 北緯36度24分47.8秒 東経139度09分19.4秒 / 北緯36.413278度 東経139.155389度 / 36.413278; 139.155389
山号 有鷲山
院号 能仁院[注釈 1]
宗旨 禅宗
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来薬師如来
創建年 天正18年(1590年)?
文禄3年(1594年)?
慶長年間?
開山 天室伊尭
開基 稲垣長茂
正式名 有鷲山 能仁院 長興寺
法人番号 7070005000263 ウィキデータを編集
長興寺の位置(群馬県内)
長興寺
長興寺
長興寺 (群馬県)
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長興寺(ちょうこうじ)は、群馬県前橋市茂木町にある曹洞宗寺院

愛知県豊川町妙厳寺(豊川稲荷)末寺にあたる。また、長興寺も前橋市堀越町の永龍寺や伊勢崎市天増寺などの末寺を持つ[1][2]

概要

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稲垣長茂鳥羽藩主家稲垣家初代当主)[注釈 2]が、伊勢崎藩在封期の慶長年中に、妙厳寺9世である天室伊尭を開山に迎えて、稲垣家菩提寺として開基したと伝承される[1]。他方、稲垣長茂が大胡藩主牧野康成から独立する以前、大胡に居を構えた時期の開基という説もあり、『大胡町誌』では天正18年(1590年[4]、『前橋風土記』では文禄3年(1594年)の開創としている[5]

慶長6年(1601年)幕府から50石の朱印状を与えられた[4]

元和4年(1618年大胡藩牧野忠成越後長岡藩に転封になった際、当寺の僧の天室恵鏡が同行して長岡城下(現在の新潟県長岡市)に普嶽山長興寺を建てている[6]

大正7年(1918年)、不審火により本堂・庫裏などを焼失し、同11年に再建[2]

太平洋戦争中は王子第一国民学校の児童職員の集団疎開の受け入れを行った[7]

昭和42年(1967年)、境内の敷地の一部に大胡保育園(現・大胡第一保育園)を設置[2]

墳墓等

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境内には牧野家老臣であった稲垣長茂の父の重宗(法名道善)の墓や同じく牧野家老臣で後に徳川家直参となった山本成行(帯刀左衛門尉)夫妻の墓(現在は供養塔)がある(山本成行は越後長岡藩家老の山本帯刀家の祖である)[8]

また、同寺墓地には大河内二右衛門(前橋藩酒井家家臣・大胡城代)夫妻の墓、同じく前橋藩酒井家家臣の村上重清一族の墓、その他にも同藩大胡在勤の武士であった成瀬・依田・増尾・林野・赤堀・横山など各家の墳墓がある[9]

このほか、川越藩士・赤羽三蔵宗忠が主命を帯びてこの地に至るが、客死したためにこの寺に葬られ、宗忠の遺言に感じ入った当時の大胡村の住民が寺の西南300メートルほどの地点に建碑している[注釈 3][2]

周辺

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脚注

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注釈

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  1. ^ 「能仁」は「釋迦(如來)」の漢訳
  2. ^ 長茂は牧野康成の老臣で徳川家康の直参旗本に抜擢され、慶長6年(1601年)には大名(伊勢崎藩主1万石)に列した[3]
  3. ^ 遺言「…(前略)…されど吾旅に死すとも後世旅に病む者に力を与うべし」によるという、その碑文は、「赤羽三蔵宗忠、生国武州仲辻村人、為予禮徳仁義師也、于時宝永二酉正月二十四日夜於病死、従是当北林葬長興寺仁」(赤羽三蔵宗忠、生国は武州仲辻村の人、予(かね)て礼徳・仁義の師なり、時に宝永2年(1705年)酉、正月二十四日夜病死するに於いて、是より当北林の長興寺に葬る)[10]

出典

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参考文献

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  • 有鷲山長興寺『平成新修 長興寺誌』有鷲山長興寺、1991年。 
  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第六』続群書類従完成会、1984年。 
  • 『日本歴史地名大系・群馬県の地名』平凡社 
  • 大胡町誌編纂委員会 委員長 須永 善四郎『大胡町誌』1976年6月15日(原著1976年6月15日)。doi:10.24484/sitereports.99955NCID BN03614004https://sitereports.nabunken.go.jp/99955