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長町耕平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長町 耕平(ながまち こうへい、安政3年(1856年)11月 - 大正8年(1919年6月23日)は、香川県出身の医師、山梨県病院院長、香川県立高松病院長。号は象東、藻海。

略歴

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讃岐国高松藩富熊村(現在の香川県丸亀市)の薬種商、長町徳兵衛の子として生まれる。明治14年(1881年)7月に東京帝国大学医科大学を卒業、新潟県の公立三条病院長を経て、明治17年(1884年2月8日に山梨県病院(現在の山梨県立中央病院)の第5代院長となり、明治24年(1891年4月2日まで務めた後、香川県立高松病院長となり、明治31年(1898年)には高松市西新通町に拙誠堂医院を開業。また、高松市会議員を務めている。

地方病と十二指腸虫卵の発見

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山梨県内における地方病 (日本住血吸虫症)の最初の公式記録である、明治14年(1881年)に東山梨郡春日居村から東山梨郡役所経由で山梨県に提出された、その惨状を訴え出た「御指揮願」、明治17年(1884年2月20日に同村から再度の上申書が提出され、当該上申書に基づき山梨県が同年3月15日に検診医を現地に派遣しているが、その後も、予防の方法もないまま地方病の患者が増加していく村の現状を憂いた同村は、明治20年(1887年2月10日付で再度地方病の原因調査を山梨県に上申している。

上申書
部内春日居村小松組ハ従来水腫病ニ罹ル者多々有之其原因ハ飲料水不良ノ一点ト想像シ水質御検査之儀上申致シ明治十八年陸軍軍医石井某殿[1]御検査ノ成績ニ依リ果シテ然ネト御鑑定相成猶客年十二月中 本県病院ニヨリ医員御派出井水ヲ除クノ外水流水ニ至ル迄懇篤御検査ノ上小沢松兵衛外三名所有所有ノ井水ヲ除クノ外善良ノ水質ニテ該病原因ハ飲料水ニ無之モノト御鑑定相成候得共該組人員十分ノ三四ハ自今水腫病ニ罹リ居リ人民殆苦慮罷在候間右ハ何等ニ原因スルカ深ク御探究判明候様被下度此段上申候也
— 明治20年(1887年)2月10日付「上申書」

この上申書を受け入れた山梨県は、同年5月20日に山梨県病院長の長町耕平及び同病院六等医員の北野寛司を現地に派遣し、調査と患者数名に対する臨床検査を行い、その所見から体内に病原の所在を認め、同病院医員の飯島茂らとともに春日居村の300余名の糞便検査の結果、体内に一種の虫卵を確認したことから、長町は地方病の病原は十二指腸虫の卵子であろうとする仮説をたてるとともに、その予防法の第一として飲料水問題をあげる明治20年5月12日付の復命書を山梨県知事山崎直胤あて提出している。

復命書
東山梨郡春日居村ニ於テ一種ノ地方病アル趣キヲ以テ其病原探検ノ為メ派遣を命セラレ依テ二月廿日六等医員北野寛司ヲ随ヘ該村ニ派出シ仝郡衛生担当員某及戸長某ヲ伴ヒ仝村小松組ヲ巡検踏査スルニ該地区東南隅ニ僻在シ地質鬆疎ニシテ太タシク卑湿ナラス二、三ノ小流アリテ之レヲ貫通シ   ~略~   寄生虫タル右ノアンキロストマハ常ニ十二指腸ニ群簇棲息シ其吸盤ニ由テ該腸壁ニ附着シ活体ニ須要ナル栄養液ヲ奪吸シ以テ生存スルモノナレバ之レカ為メ歳月ヲ閲スルニ従ヒ其人身ニ余波ヲ及ホシ高度ノ乏血症ヲ発表スルニ至ルモノトス如市斯身体ニ障礙ヲ及ホスヘキ母虫ハ容易ニ腸管ヲ退去セザルモ其卵子ハ断ヘス糞尿ニ混雑シ体外ニ排泄セラルモノタリ右に卵子ヲ包含セル糞尿ハ或混シテ飲用水ニ入リ或ハ蔬菜等ニ固着シ時アリテ其卵子人体ニ転輪セラレ腸管ニ於テ孵化ヲ遂ケ生続スルモノナラン右ノ事実ニ依テ推考スレハ春日居村小松組ニ於テハ該虫卵散乱シ或方法ニ依リ居住民のや体内ニ転輪セラレ右地方病ノ原因ヲナスモノナラン
予防法
右ノ村落ニ於ケル水中ニハ該卵子ノ混入シアルモノト仮定シ得ヘキヲ以テ飲用ニ供セント欲セバ須ク煮沸スヘシ又蔬菜等ノ如キ生新ノ物ハ一切食用スヘカラス宜シク煮熟スベシ
療法
アンキロストマノ躯除法ニ至リテハ世未タ適中ノ者ヲ発見セス単ニ普通ノ躯虫剤タルサントニー子カマラ綿馬越幾私等ヲ試用スルニ過キス其乏血症ニ対シ諸般ノ銕剤ホフレル氏液キニー子等ヲ撰用スヘシ
右復命候也
明治廿年五月十二日
— 明治20年(1887年)5月12日付「復命書」

著作

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  • 『耳科新説』明治19年(1886年)刊
  • 『山迎水送集』明治35年(1902年)刊
  • 『竹石翁小伝』明治40年(1907年)刊
  • 『退養吟録』大正8年(1919年)刊

脚注

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  1. ^ 山梨県における徴兵検査官である、陸軍の石井良斎三等軍医。東山梨郡役所から飲用水検査を依頼され、本務の余暇に衛生状況を実地視察している。

参考文献

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  • 『讃岐人物評論』春雪山人著 宮脇開益堂 明治37年(1904年)。
  • 『創立七十周年記念 山梨県病院史稿抄』昭和15年(1940年)。