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長澤理玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長澤 理玄(ながさわ りげん、文化12年(1815年) - 文久3年(1863年))は日本の医師。秋元藩(山形藩館林藩)の藩医を務めた。山形・館林の両地で種痘の普及に尽力した。理玄の業績を顕彰する「種痘の碑」が山形市の千歳公園にある。


 長澤理玄及び関連年表

1771(明和8)年山形藩時代の分限帳に「医師 外科 長澤理玄」の名記述(嘉永3年夏5月岩田和貴による写し)

1795(寛政7)年長澤周玄(理玄の父)山形城下に生まれる。

1796年ジェンナー(英)牛痘利用の種痘法発見。

1798年イギリスの医師、エドワード・ジェンナー牛痘接種法を発表

1815(文化12)年長澤理玄(実名宣直、お国替絵巻と相違有) 山形城下に生まれる。父 周玄は藩医

1832(天保3)年2月長澤理長(理玄の実弟、二代目理玄)山形城下に生まれる。

1845(弘化2)年秋元藩は館林に国替えとなる。

1846(弘化3)年岡谷瑳磨介中老見習いに抜擢される。

1847(弘化4)年4月旧学問所を拡張改革し求道館とし館法官員を定む。

   1848(嘉永元)年岡谷瑳磨介江戸より帰藩家老職(中老役)を務める

1849(嘉永2)年わが国に牛痘種痘法が伝わる。日本で初めて種痘に成功この年瘡蓋(かさぶた)が入荷、佐賀藩

   医の楢林宗建は息子に接種して成功、同佐賀藩士、伊東玄朴に痘苗が送られ、江戸藩邸で接種、江戸での

   初めての牛痘法による種痘となる。この後全国へ波及。

1849(嘉永2)年11月桑田立斎、伊東玄朴から痘苗譲受。桑田立斎著『牛痘発蒙』嘉永4年刊

1850(嘉永3)年長澤理玄、江戸の桑田立斎より種痘術修業。

1851(嘉永4)年長澤理玄、種痘の実行を始める。

  「(嘉永)翌4年ニハ館林ニテ大ニ施術シ更に翌5年ニハ出羽ニ至リテ術ヲシ、且旧門人其他ニ之ヲ伝エタ」

1852(嘉永5)年秋、長澤理玄山形を訪問、種痘を広める。理玄38歳

1853(嘉永6)年4月理玄、山形において「種痘実施触れ」出され「施し治療であるため礼物など心配は無用」

1853(嘉永6)年10月理玄が大石田(北村山郡大石田町)に来て種痘。

1855(安政2)年2月藩主秋元志朝、太陽寺典膳盛明、岡谷瑳磨介を改正掛に任命。

1856(安政3)年2月長澤理玄、門人菩提寺(山形市片町〈現在の七日町〉本久寺境内、なお同町光明寺の説有)

   に「種痘碑」を建て種痘の普及を図る。   

1856(安政3)年11月長澤理長平宜徳(周玄の次男、理玄の実弟)長澤理玄の養子となる。

1856(安政3)年12月藩主秋元志朝、太陽寺典膳盛明、岡谷瑳磨介を責任者とする改革令発令。

   藩政改革の達書安政三年2月、同造士書院設立の達書安政4年6月機業会所の設置。

1857(安政4)年6月15日造士書院開院に伴い種痘家 漢家兼外科を拝命、長澤周玄(理玄の父)は、漢家兼外

   科部長を拝命。

1858(安政5)年江戸在住の佐賀藩々医 伊東玄朴が中心となりお玉ケ池種痘所(江戸で初の種痘所)設立。

1860(万延元)年藩主の命を受け自費を以て、館林牛痘会所(後に種痘館)を金山に設置。後の疱瘡長屋。

1860(万延元)年4月長澤理長(理玄の養子、実弟)、医学講義を成就し外科見習いを拝命し長澤松庵と改名。

1860(万延元)年岡谷荘三郎幕府使節に随行して渡米。

1861(文久元)年「引痘弁疑」遠山元長著す。

1863(文久3)年長澤理玄49才で死去。

1863(文久3)年12月産物会所創設されその後足利町縞会所と改称。

1863(文久3)年3月20日長澤松庵、嫡孫承祖二代目長澤理玄襲名。

1863(文久3)年長澤周玄おい病にかかる。

1863(文久3)年11月断髪党事件勃発、岡谷瑳磨介失脚。

1865(慶応元)年4月岡谷瑳磨介死去。

1867(慶応3)年10月長澤周玄没。

1868(慶応4)年二代目長澤理玄、御番医師席となる。

1868(明治元)年5月二代目長澤理玄、戊辰戦争へ出兵。

1868(明治元)年10月二代目長澤理玄,戊辰戦争館林へ帰陣。

1869(明治2)年8月二代目長澤理玄、弘と改名。

1870(明治3)年8月22日戊辰戦争賞典。

1872(明治5)年この頃長澤一家宇都宮に移り住む。同年二代目理玄(弘)死去する。

1876(明治9)年以降、館林、小泉、板倉、須賀等に邑楽郡種痘所が設置。

1880(明治13)年文部省「日本教育史」編纂のため舊藩主秋元興朝取調により明治13年6月文部省に報告書提出 

   長澤理玄につき言及する。

1883(明治16)年医師免許第一号の中野啓覚館林にて開業。

1913(大正2)年2月岡谷繁実「館林叢談」著す

1917(大正6)年12月「群馬県邑楽郡誌」発刊

1918(大正7)年3月遠山椿吉「長澤理玄」著す 南條新六郎の手録の記述あり。

1920(大正9)年4月遠山椿吉山形市千種公園に石碑(種痘の碑)を再建。

参考文献

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石村澄江『疱瘡長屋の名医 種痘に賭けた長澤理玄の生涯』2002年、あさを社 ISBN 9784870243460

小堀直人著 「館林藩医 長澤理玄考察ー館林牛痘会所ー」2017年 8月