長泉塚古墳
長泉塚古墳 | |
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所在地 | 愛知県丹羽郡扶桑町高雄中屋敷37-1 |
位置 | 北緯35度21分21.74秒 東経136度55分26.5秒 / 北緯35.3560389度 東経136.924028度 |
形状 | 円墳 |
規模 |
東西約21m 南北約24m 高さ約4m |
築造時期 | 古墳時代後期 |
史跡 | 愛知県指定史跡[1] |
地図 |
長泉塚古墳(ちょうせんづかこふん)は、愛知県丹羽郡扶桑町高雄にある古墳。形状は円墳。県の史跡に指定されている。古墳時代後期の築造と推定される。
概要
[編集]犬山扇状地の低台地につくられた古墳時代後期の円墳で、東西約21m、南北約24m、高さ約4mであり、周溝がめぐらされている[2]。内部構造、副葬品については明らかでない。普通見られる円墳であるが、東部に周濠の跡があり、また墳丘に2~3mの段をめぐらせているのは珍しい例として[3]、1964年(昭和39年)3月23日、愛知県文化財(史跡)に指定された[2]。現状の墳丘は樹木に覆われ[2]ているが、2 - 3mの段があり、全体の形は円墳を2段重ねたような上円下円墳で、珍しい形状である。また、この地方では珍しく墳丘の周囲には濠がめぐらされた形跡がある[4]。
従来南新田地区の所有であったが、愛知県の文化財指定を機会に託美神社の所有となった。その後、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風などで破損がひどくなり、愛知県及び扶桑町の補助で、1975年(昭和50年)、補修工事を行い、破損箇所の土盛り、倒木の整理などを行い、社を下へ移し原形に復元した。更に、1980年(昭和55年)、外周フェンスの修理、1985年(昭和60年)には由緒碑を設置するなどして史跡としての環境を整えた[5]。
歴史
[編集]当地方の土豪を葬った古墳であると伝えられているが、その詳細について位は全く不明[2]。寛文年間には長泉院九郎エ門という人物が在住し、人々は古墳の祟りを恐れて近づかなかったため、比較的によくその原形を保っているかに見える[6][5]。また、キリシタン屋敷があったとする伝聞もあるが[5]、その由緒については、語り伝えもなく、知る由もないが、豪族の墳丘で、その主は古代豪族の一族のものであると考えられている[2]。
伝承
[編集]長泉塚古墳を中心に約8反5畝の畑地は、長泉院と称するキリスト教教会堂の遺跡で、布教者イルマン及び教徒の斬込地という。伝承によると、昔この地に小堂があって、イルマン主徒が住んでおり、日夜聖書を誦し、護摩を焚きその灰を散布したので、この一帯は農作物の出来が悪く、この地に居住する家はいつも凶事が絶えなかったという[7]。
構造
[編集]- 直径:約30.0m
- 高さ:3.0m
- 東西:約21m
- 南北:約24m
周囲にはこの地方では珍しく堀がめぐらされていた形跡があり、塚は原生林に覆われていて、頂上部から下方に細って見える。雨による土の流失であろうか、人の登壇によって細ったものであろうか、壇の頂上から下方にかけて、ゆるやかな円形を成していない。全体の形はあたかも円墳を二段に重ねたような、二重かさねの姿で、二段式古墳であると説明されていて、古墳の型としては特異なもので珍しい存在である。
ギャラリー
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 扶桑町史編纂委員会 編『扶桑町史(下)』愛知県丹羽郡扶桑町役場 発行、1998年
関連項目
[編集]- 舟塚古墳 (扶桑町) - 長泉塚古墳の西方に位置し、町内にもう一つ現存する古墳。扶桑町指定文化財(史跡)。
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