コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

長崎市立佐古小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長崎市立佐古小学校
地図北緯32度44分22.034秒 東経129度52分42.805秒 / 北緯32.73945389度 東経129.87855694度 / 32.73945389; 129.87855694座標: 北緯32度44分22.034秒 東経129度52分42.805秒 / 北緯32.73945389度 東経129.87855694度 / 32.73945389; 129.87855694
過去の名称 佐古尋常高等小学校
佐古国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 長崎市
校訓 佐古の子、みんなで育て、みんなで育つ
設立年月日 1906年明治39年)6月1日
閉校年月日 2016年平成28年)3月31日
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
所在地 850-0837
長崎県長崎市西小島一丁目7番1号
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
テンプレートを表示

長崎市立佐古小学校(ながさきしりつ さこしょうがっこう、Nagasaki City Sako Elementary School)は、長崎県長崎市西小島一丁目にあった公立小学校

2016年平成28年)3月末をもって閉校し、校区の隣接する仁田小学校と統合の上、仁田佐古小学校が新設された。

概要

[編集]
歴史
1906年明治39年)に開校した「佐古尋常高等小学校」を前身とする。2011年平成23年)に創立105周年を迎えた。
校訓
「佐古の子、みんなで育て、みんなで育つ」
校歌
作詞は八波則吉、作曲は島崎赤太郎による。3まであり、2番に校名の「佐古」が登場する。
校区
中学校区は長崎市立大浦中学校

沿革

[編集]
前史
  • 1860年万延元年)
    • 4月8日 - ポンペが病院建設を要請。病院の名称が養生所に決定。
    • 5月24日 - 長崎奉行所代官高木作右衛門忠知が下長崎村小島郷大字佐古(現・長崎市立佐古小学校)の畑地425坪を建設地に決定し、養生所を着工。
  • 1861年文久元年) 8月6日 - 養生所と附属医学所が完成。この養成所は長崎大学病院、医学所は長崎大学医学部の前身である。
    • その後、養生所は「精得館」、「長崎府医学校ならびに病院」、「長崎県病院医学校」、「長崎県病院・長崎医学校」、「第六大学区医学校」、「第五大学区医学校」、「長崎医学校」、「蕃地事務支局病院」、「長崎病院・医学場」、「長崎医学校(再)・長崎県立長崎病院」、「第五高等中学校医学部」と改称を重ねる[1]
  • 1891年(明治24年)9月11日 - 第五高等中学校医学部医学科・薬学科が小島から西彼杵郡浦上山里村(現・長崎市坂本)に移転。小島に分教室と病院は残る。
正史

アクセス

[編集]
最寄りの鉄道駅
最寄りのバス停
最寄りの国道・県道

周辺

[編集]

脚注

[編集]

参考資料

[編集]

関連事項

[編集]

外部リンク

[編集]