長屋景重
表示
時代 | 室町時代末期 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 寛永5年4月4日(1628年5月7日) |
別名 | 左近将監、重建[1] |
戒名 | 林昌寺殿園盛道林庵主 |
墓所 | 岐阜県飛騨市古川町林昌寺 |
官位 | 従五位下信濃守幕府 = 室町幕府 |
主君 | 土岐成頼→斎藤道三→織田信長→豊臣秀吉 |
氏族 | 桓武平氏鎌倉氏流長屋氏(長江氏支流) |
父母 | 長屋景教[2](道重)太郎大膳亮[1]、母不明 |
兄弟 | 景興(太郎大膳亮)[3]、景重 |
妻 | 伝稲葉氏(稲葉一鉄か?)の娘 戒名「華林院丹窓正栄大禅尼」慶長十六年辛亥七月八日卒 林昌寺殿妻と素玄寺記録にあり[4] |
子 | 景興(相羽城主・大膳亮)[2]、景任(市郎左衛門)[3]、金森可重[2]、景康(宗八郎)、景信(七郎蔵人)[5] |
長屋 景重(ながや かげしげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。美濃国板取城主。子に飛騨国高山藩2代藩主・金森可重他。通称は将監。信濃守を名乗る。
生涯
[編集]鎌倉流長江・長屋氏の一族で土岐氏の重臣長屋氏の長男として垂井城で産まれた。織田信長の美濃侵攻の際、人質に長男の喜蔵(後の金森可重)を出したが、長屋氏が抵抗したため、縁戚関係である板取城に逃げ延びた[6]。
その後、天正10年(1582年)10月織田信孝の命により佐藤方政に攻められ、田口城は落城したため、実子の金森可重を頼り、飛騨古川に夫婦共々逃げ込んだ[8][9]。その後、可重は古川の林昌寺を隠居所として、両親を住まわせた[10]。
寛永5年(1628年)4月4日、古川で死去。戒名は林昌寺殿園盛道林庵主[11]。妻は戒名「華林院丹窓正栄大禅尼」慶長十六年辛亥七月八日卒 林昌寺殿妻と素玄寺記録にあり[4]。
脚注
[編集]- ^ a b 渡邊賢雄 1984, p. 267, 木田郷長屋郁夫家系図
- ^ a b c 渡邊賢雄 1984, p. 274, 長屋重盛家譜
- ^ a b 渡邊賢雄 1984, p. 263, 本巣郡糸貫町長屋二郎家系図
- ^ a b 渡邊賢雄 1984, p. 304, 金森氏系 桐山玄豹校訂 高山市郷土館蔵
- ^ 渡邊賢雄 1984, p. 284, 長屋舊記 長屋氏系図
- ^ 『鎌倉流長江・長屋系譜』[要文献特定詳細情報]
- ^ 渡辺賢雄『板取村史』板取村、1982年5月、[要ページ番号]頁。全国書誌番号:88024251。
- ^ 板取村岩本地区に千人塚があり、ここで多くの武将が討死したとの伝説がある[7]。
- ^ この当時、金森氏は飛騨を領していないため、「古川に逃げた」は史実と合致しない。金森氏が飛騨国を支配下に置き、養父の金森長近から可重が飛騨古川1万石を与えられ、領するのは早くとも天正13年(1585年)の夏以降である。可重が実親の隠居所として林昌寺を再興したのは天正17年(1589年)とされている。
- ^ 「古川町史 中世編」[要ページ番号]
- ^ 飛騨人物事典編集室 編『飛騨人物事典』高山市民時報社、2000年5月、175頁。ISBN 4924732508。
参考文献
[編集]- 渡邊賢雄『鎌倉流長江長屋氏綜覧』板取村教育委員会、1984年4月。 NCID BB09348306。