島親益
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(長宗我部親房から転送)
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 1571年3月29日(元亀2年3月4日) |
別名 | 親房(別名) |
氏族 | 長宗我部氏→島氏 |
父母 | 父:長宗我部国親 |
兄弟 |
長宗我部元親、吉良親貞、 香宗我部親泰、親益 |
子 | 親典[1] |
島 親益(しま ちかます、不明 - 1571年3月29日(元亀2年3月4日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。長宗我部国親の四男。別名は親房。
生涯
[編集]父・国親が家臣・島某の妻に手を出して生ませた子供だったため、島姓を名乗った。武勇に優れ、異母兄・長宗我部元親の本山氏攻め等で活躍した。
しかし、病にかかり、播磨の有馬温泉に療養に出かける途中、強風のため阿波国海部城下の那佐湾に舟を停泊したところを、敵襲と勘違いした城主・海部友光に襲われ、1571年3月29日(元亀2年3月4日)に病の身ながら奮戦するも討たれた。その後、元親は弟の死に激怒し、海部城を攻略する。
現在は徳島県海部郡海陽町の那佐神社に慰霊碑が建立されている。
子孫
[編集]子孫の親典(1594年生まれなので、親益の子としては年齢が合わない。孫か一族と推定される。)は大坂の陣で豊臣方に参戦し敗れたが、土佐藩(山内忠義藩主)での入牢を経て土佐藩士に取り立てられた。しかし下士に甘んじた。
その後も島氏は土佐藩に仕え、明治維新後に長宗我部姓に復した。また宗家が途絶えていたため、必然的に長宗我部氏の当主の座を引き継いだ(明治時代に明治天皇から正統子孫と認められた)。
脚注
[編集]- ^ 1代~2代後の子孫の可能性
外部リンク
[編集]- 長宗我部家の伝来史料、山内家宝物資料館に寄託 産経ニュース - ウェイバックマシン(2010年6月17日アーカイブ分)