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島親益

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長宗我部親房から転送)
 
島 親益
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 1571年3月29日元亀2年3月4日
別名 親房(別名)
氏族 長宗我部氏→島氏
父母 父:長宗我部国親
兄弟 長宗我部元親吉良親貞
香宗我部親泰親益
親典[1]
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島 親益(しま ちかます、不明 - 1571年3月29日元亀2年3月4日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長宗我部氏の家臣。長宗我部国親の四男。別名は親房

生涯

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島弥九郎事件跡碑
徳島県海部郡海陽町

父・国親が家臣・島某の妻に手を出して生ませた子供だったため、島姓を名乗った。武勇に優れ、異母兄・長宗我部元親本山氏攻め等で活躍した。

しかし、病にかかり、播磨有馬温泉に療養に出かける途中、強風のため阿波国海部城下の那佐湾に舟を停泊したところを、敵襲と勘違いした城主・海部友光に襲われ、1571年3月29日元亀2年3月4日)に病の身ながら奮戦するも討たれた。その後、元親は弟の死に激怒し、海部城を攻略する。

現在は徳島県海部郡海陽町那佐神社に慰霊碑が建立されている。

子孫

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子孫の親典1594年生まれなので、親益の子としては年齢が合わない。孫か一族と推定される。)は大坂の陣で豊臣方に参戦し敗れたが、土佐藩山内忠義藩主)での入牢を経て土佐藩士に取り立てられた。しかし下士に甘んじた。

その後も島氏は土佐藩に仕え、明治維新後に長宗我部姓に復した。また宗家が途絶えていたため、必然的に長宗我部氏の当主の座を引き継いだ(明治時代に明治天皇から正統子孫と認められた)。

脚注

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  1. ^ 1代~2代後の子孫の可能性

外部リンク

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