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錦織教久

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錦織教久
錦織教久
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 嘉永3年5月29日[1]1850年7月8日
死没 明治40年(1907年12月20日[1][2]
主君 孝明天皇明治天皇
氏族 錦織久隆
父母 父:錦織久隆
兄弟 教久、隆子、土御門晴榮
松木宗有二女・須賀子、
黒田長元四女・茂登子、
添川平長長女・峯、藪実方長女・文子
栄久
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錦織 教久(にしごり ゆきひさ[1] / のりひさ[3])は、幕末公家、明治期の裁判官宮内官・政治家華族貴族院子爵議員

経歴

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山城国京都刑部卿錦織久隆の息子として生まれる[1][4]。父の隠居に伴い、1882年(明治15年)5月27日に家督を相続[1]1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[5]

安政3年5月1856年6月)元服して昇殿を許された[3]。以後、中務大輔淑子内親王家執事、宮中祗候などを歴任[3][6]1880年(明治13年)判事補に任官[2]。以後、大阪裁判所判事補、堺治安裁判所長、大審院書記、群馬県属、宮内省御用掛、青山御所祗候、英照皇太后御霊前奉仕斎官、英照皇太后御一周年御霊前斎官などを務めた[2][4][6]

1897年(明治30年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[7]、死去するまで在任した[2][8]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 『平成新修旧華族家系大成 下巻』310-311頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』51頁。
  3. ^ a b c 『日本人名大事典 第5巻』16頁。
  4. ^ a b 『人事興信録〔初版〕』171頁。
  5. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  6. ^ a b c 『明治過去帳』新訂初版、1052頁。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、7頁。
  8. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、16頁。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録〔初版〕』人事興信所、1903年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 大植四郎編『明治過去帳』新訂初版、東京美術、1971年(原著私家版1935年)。
  • 『日本人名大事典』第5巻、平凡社、1979年(『新撰大人名辞典』(昭和12年刊)の改題複製)。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
錦織家初代
1884年 - 1907年
次代
錦織栄久