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テムル・タシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
鉄木児塔識から転送)

テムル・タシュモンゴル語: Temür daš1302年 - 1347年)は、大元ウルス末期の重臣。モンゴル帝国によって滅ぼされたカンクリ部王族の出身であった。

元史』などの漢文史料では鉄木児塔識(tiěmùér tǎshì)と表記される。

概要

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テムル・タシュはカンクリ部王族の末裔であるトクトの息子の一人で、幼いころから聡明なことで知られ、書をよく学んだという。また、タシュ・テムルの母はウイグル人のユルクト(月魯忽図)で、コシラ(後の明宗クトクト・カアン)の生母のイキレス氏とともに育った人物であった[1]。父のトクトはクルク・カアン(武宗カイシャン)の側近として即位に貢献した人物で、テムル・タシュは若い頃クルク・カアンの長男のコシラに仕えていた。クトクト・カアンが即位直後に急死するとその弟で地位を継いだジャヤガトゥ・カアン(文宗トク・テムル)に仕え、同知都護府事・礼部尚書・参議中書省事・陝西行台侍御史・奎章閣侍書学士・大都留守・同知枢密院事といった職を歴任した。ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の即位後、後至元6年(1340年)には中書右丞となり、「至正」と改元された後は中央の要職である平章政事に任命されている[2]。なお、中書右丞への昇任については、近侍の世傑班による推薦を受けて決められたものであったが、世傑班はこのことをタシュ・テムルに語ることなく、タシュ・テムルは遂に世傑班の好意を知ることなく亡くなったとの逸話が『山居新話』に伝えられている[3]

翌年に行われた「至正」への改元は右丞相バヤン失脚に伴うもので、バヤンの失脚後、中書省では庶務が増えテムル・タシュも多忙となったため、ウカアト・カアンは坐榻を下賜したという。至正2年(1342年)、京倉の米をカラコルムに輸送するなどの事業を手掛けている。また、この頃日本商人100人あまりが高麗に漂着したが、現地民に略奪を受けるという事件が起こっており、テムル・タシュは日本商人が無事帰還できるよう手配したという。また、地方では年々塩価が増額していっていたため、テムル・タシュはこれを減額している[4]

至正5年(1345年)、御史大夫の地位を授けられた。この時、政変のたびに失脚した高官の家族が処刑もしくは奴隷身分に落とされていることを問題視し、祖宗の教えでは父の罪は子に及ばないはずである、と進言したという。その後、平章政事の地位に移り、ウカアト・カアンが夏期に上都に巡幸する際も大都に残留して庶務を行った[5]

至正7年(1347年)、丞相のアルクトゥが失脚すると、テムル・タシュは呼び出されて左丞相に任命され、固辞するも許されず、左丞相の地位を拝命したという。左丞相としてテムル・タシュは網紀を正し、よくウカアト・カアンを補佐したと評される。しかし、ウカアト・カアンの上都への巡幸に従った時に、46歳にして亡くなった[6]

テムル・タシュは儒学に深く通じていたことで知られており、バヤンが科挙を廃止しようとした時に反対したことや、『遼史』・『金史』・『宋史』の編纂にも総裁官として携わった逸話が伝えられている[7]

カンクリ部クリシュ家

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  • クリシュ(Quriš >虎里思/hǔlǐsī)
    • キシリク(Kišilig >乞失里/qǐshīlǐ)
      • クルク(Külüg >曲律/qūlǜ)
      • イェイェ(Yeye >牙牙/yáyá)
        • ブベセル(Böbeser >孛別舎児/bóbiéshèér)
        • ホチキ(Hočiki >和者吉/hézhějí)
        • ブベク(Böbek >不別/bùbié)
        • オトマン(Otoman >斡禿蛮/wòtūmán)
        • アシャ・ブカ(Aša buqa >阿沙不花/āshā bùhuā)
        • トクト(Toqto >脱脱/tuōtuō)
          • バアトル(Ba’atul >覇都/bàdōu)
          • テムル・タシュ(Temür taš >鉄木児塔識/tiěmùér tǎshì)
          • オズグル・トカ(Ozghur toqa >玉枢虎児吐華/yùshūhǔértǔhuá)
            • バアトル(Ba’atul >抜都児/yùshūhǔértǔhuá)
              • オルジェイ・テムル(Öljei temür >完者帖木児/ālǔhuī tièmùér)
            • ネウリン(Neülin >紐璘/niŭlín)
          • タシュ・テムル(Taš temür >達識帖睦邇/dáshì tièmùěr)
          • カダ・ブカ(Qada buqa >哈不花/wòtūmán)
          • アルグ・テムル(Aruγ temür >阿魯輝帖木児/ālǔhuī tièmùér)
          • トレ(Töre >脱烈/wòtūmán)
            • 長寿安
        • カダ・テムル(Qada temür >哈達帖木児/hādá tièmùér)
          • 万僧
        • オンギャヌ(汪家閭/wāngjiālǘ)
          • ボロト・テムル(Bolod temür >博羅帖木児/bóluó tièmùér)

脚注

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  1. ^ 尚 2012, pp. 16–17.
  2. ^ 『元史』巻140列伝27鉄木児塔識伝,「鉄木児塔識字九齢、国王脱脱之子。資稟宏偉、補国子学諸生、読書穎悟絶人。事明宗於潜邸。文宗初、由同知都護府事累遷礼部尚書、進参議中書省事、擢陝西行台侍御史、留為奎章閣侍書学士、除大都留守、尋同知枢密院事。後至元六年、拝中書右丞。至正改元、陞平章政事」
  3. ^ 尚 2012, p. 11.
  4. ^ 『元史』巻140列伝27鉄木児塔識伝,「伯顔罷相、庶務多所更張、鉄木児塔識尽心輔賛。毎入番直、帝為出宿宣文閣、賜坐榻前、詢以政道、必夜分乃罷。二年、郊、鉄木児塔識言大祀竣事、必有実恵及民、以当天心、乃賜民明年田租之半。嶺北地寒、不任穡事、歳募富民和糴為辺餉、民雖稍利、而費官塩為多。鉄木児塔識乃請別輸京倉米百万斛、儲于和林以為備。日本商百餘人遇風漂入高麗、高麗掠其貨、表請没入其人以為奴。鉄木児塔識持不可、曰『天子一視同仁、豈宜乗人之険以為利、宜資其還』。已而日本果上表称謝。俄有日本僧告其国遣人刺探国事者。鉄木児塔識曰『刺探在敵国固有之、今六合一家、何以刺探為。設果有之、正可令覩中国之盛、帰告其主、使知嚮化』。両浙・閩塩額累増而課愈虧、江浙行省請減額、鉄木児塔識奏歳減十三万引」
  5. ^ 『元史』巻140列伝27鉄木児塔識伝,「五年、拝御史大夫。務以静重持大体、不為苛嬈以立声威。建言『近歳大臣獲罪、重者族滅、軽者籍其妻孥。祖宗聖訓、父子罪不相及。請除之』。著為令。近畿饑民争赴京城、奏出贓罰鈔、糴米万石、即近郊寺観為糜食之、所活不可勝計。居歳餘、遷平章政事、位居第一。大駕時巡、留鎮大都。旧法細民糴於官倉、出印券、月給之者、其直三百文、謂之紅貼米。賦籌而給之、尽三月止者、其直五百文、謂之散籌米。貪民買其籌貼以為利。鉄木児塔識請別発米二十万石、遣官坐市肆、使人持五十文即得米一升、姦弊遂絶」
  6. ^ 『元史』巻140列伝27鉄木児塔識伝,「七年、首相去位、帝召鉄木児塔識諭旨、若曰『爾先人事我先朝、顕有労績、爾実能世其家、今命汝為左丞相』。鉄木児塔識叩頭固辞、不允、乃拝命。鉄木児塔識修飭綱紀、立内外通調之法朝官外補、許得陛辞、親授帝訓、責以成効。郡邑賢能吏、次第甄抜、入補朝闕。分海漕米四十万石置沿河諸倉、以備凶荒。先是、僧人与斉民均受役于官、其法中変、至是奏復其旧。孔子後襲封衍聖公、階止四品、奏陞為三品。歳一再詣国学、進諸生而奨励之。中書故事、用老臣預議大政、久廃不設、鉄木児塔識奏復其規、起腆合・張元朴等四人為議事平章。曽未半年、救偏補弊之政以次興挙、中外咸悦。従幸上京還、入政事堂甫一日、俄感暴疾薨。年四十六。贈開誠済美同徳翊運功臣・太師・中書右丞相、追封冀寧王、諡文忠」
  7. ^ 『元史』巻140列伝27鉄木児塔識伝,「鉄木児塔識天性忠亮、学術正大、伊・洛諸儒之書、深所研究。帝嘗問為治何先、対曰『法祖宗』。帝曰『王文統奇才也、朕恨不得如斯人者用之』。対曰『世祖有堯・舜之資、文統不以王道告君、而乃尚覇術、要近利、世祖之罪人也。使今有文統、正当遠之、又何足取乎』。初、伯顔議罷科挙、鉄木児塔識時在参議府、訖不署奏牘、及入中書乃議復行之。徴用処士、待以不次之擢、或疑為太優、鉄木児塔識曰『隠士無求於朝廷、朝廷有求於隠士、区区名爵、奚足惜哉』。識者誦之。時修遼・金・宋三史、鉄木児塔識為総裁官、多所協賛云」

参考文献

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  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 尚衍斌「畏兀児人世傑班仕元遺事」『西域研究』、2012年
  • 元史』巻140列伝27鉄木児塔識伝
  • 新元史』巻200列伝97鉄木児塔識伝