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鈴木則子 (中国残留婦人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
すずき のりこ

鈴木 則子
生誕 (1928-12-19) 1928年12月19日
東京府
死没 (2011-01-26) 2011年1月26日(82歳没)
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鈴木 則子(すずき のりこ、1928年12月19日[1]-2011年1月26日[2][3])は、元中国残留婦人NPO法人「中国帰国者の会」を設立、亡くなるまで会長を務めた。2011年、肺がんのため死去。享年82歳[2][4]

来歴

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東京生まれ[5]。実家は、東京・京橋で4代続く青物問屋[2]

渡満

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1943年7月、旧制日本橋高女在学中、家族とともに中国東北部(旧満州)に開拓団として渡った[5][2]。参加したのは転業開拓団である仁義仏立講開拓団[6]。入植地は、ソ連満州の国境地帯である(旧満州)興安南省・哈拉黒(ハラヘイ)であり、ノモンハン事件の場所に近かった[7]

逃避行

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逃げる際、脚に銃弾の破片が入り、その後、崖から突き落とされて股関節脱臼した[8]

意識を失って倒れていた時、中国人の人買いに捕まった。「3年間、奴隷でした」と話す。新中国の成立で、その人買いは逮捕され、死刑となった。その際、被害者としての証言を求められ、後に「敵であった日本人を差別しない新政府の態度に目を開かれたのです」と語っている[5]

帰国後

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その後、中国人男性と結婚。1978年に帰国した。1982年、「中国帰国者の会」を設立し、会長に就いた[9]1988年東京弁護士会第3回人権賞を受賞(個人と団体として)[10][5][11]

損害賠償

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2001年末、帰国支援などを怠ったとして、国に損害賠償を求めて提訴した[2][12][4]

エピソード

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  • 「日本人でも中国人でも人として正しいことをするのが大切」が5人の子どもへの口癖だった[2]

脚注

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  1. ^ 小川津根子 (2005-12-6). 国に棄てられるということ 「中国残留婦人」はなぜ国を訴えたか. 岩波ブックレットNo.666. 岩波書店. p. 43 
  2. ^ a b c d e f “(惜別)「中国帰国者の会」会長・鈴木則子さん つらい経験語り、残留婦人の先頭歩く”. 朝日新聞・夕刊. (2011年4月9日) 
  3. ^ kikokusha-nisshi (1299423600). “鈴木会長のお別れの会”. 活動日誌(中国帰国者の会). 2019年12月7日閲覧。
  4. ^ a b “鈴木則子さん(NPO法人「中国帰国者の会」会長)死去”. 読売新聞・夕刊. (2011年1月27日) 
  5. ^ a b c d “鈴木則子さん 東京弁護士会第3回人権賞を受賞(ひと)”. 朝日新聞・朝刊. (1989年3月24日) 
  6. ^ 『祖国よ-「中国残留婦人」の半世紀』岩波書店、167頁。 
  7. ^ 小川津根子、石井小夜子『国に棄てられるということ 「中国残留婦人」はなぜ国を訴えたか』岩波書店〈岩波ブックレットNo.666〉、2005年12月6日、47頁。 
  8. ^ 『国に棄てられるということ―「中国残留婦人」はなぜ国を訴えたか』岩波書店、46頁。 
  9. ^ 『国に棄てられるということ―「中国残留婦人」はなぜ国を訴えたか』岩波書店、43頁。 
  10. ^ 東京弁護士会人権賞|東京弁護士会の主な活動|東京弁護士会を知る|東京弁護士会”. www.toben.or.jp. 2019年12月7日閲覧。
  11. ^ “2団体1個人が受賞 東京弁護士会人権賞”. 読売新聞・朝刊. (1988年12月2日) 
  12. ^ “動かぬ国に「最後の手段」 中国残留孤児ら賠償提訴へ 【西部】”. 朝日新聞・朝刊. (2001年11月29日) 

参考文献

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  • 小川津根子『祖国よ―「中国残留婦人」の半世紀』岩波書店岩波新書〉、1995年。ISBN 4004303869 
  • 小川津根子・石井小夜子『国に棄てられるということ 「中国残留婦人」はなぜ国を訴えたか』岩波書店〈岩波ブックレットNo.666〉、2005年。ISBN 4000093665 

外部リンク

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