鈴木一馬 (陸軍軍人)
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鈴木 一馬 | |
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生誕 | 1873年6月18日 |
死没 | 1961年7月19日(88歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1894年 - 1924年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
除隊後 |
臨時執政府名誉顧問 国防協会会長 稚松会評議員 |
鈴木 一馬(すずき はじめ、1873年(明治6年)6月18日 - 1961年(昭和36年)7月19日)は、日本の陸軍軍人。支那駐屯軍司令官を務め、最終階級は陸軍中将である。正四位勲二等功五級。
略歴
[編集]青森県出身。本籍は東京。父は会津藩士で部将として戊辰戦争に参戦し[1]、斗南藩において司民掛開拓課に出仕した[2] 鈴木義登[3]。陸軍士官学校5期を卒業し、1894年(明治27年)砲兵少尉に任官した。陸士教官を経て日露戦争においては甲碇泊場司令部員として陸軍の運輸業務に従事[4]。野砲兵第5連隊長、近衛野砲兵連隊長を経て、1919年(大正8年)11月少将へ昇進し野戦重砲兵第2旅団長に就任した。1921年(大正10年)1月20日には南次郎の後任として支那駐屯軍司令官に就任し2年半にわたって在任。 1924年(大正13年)12月に中将進級と同時に待命となり同月予備役に編入された。
その後臨時執政府名誉顧問を務め段祺瑞を援助し、文虎一等勲章を授与された[3]。日本においては国防協会の会長を務め[3]、また会津藩所縁の高等武官で組織された稚松会の評議員として後進の育成にあたった。同会総裁である会津松平家当主・松平保男の葬儀に際しては葬儀委員を務めている[5]。妻は山口県の渡邊泰造次女[3]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
著書
[編集]- 『最近の支那事情』大阪実業協会出版部、1925年
- 『国民軍事通論』 軍事学指針社、1925年
- 『極東防衛論』 太陽社、1933年
- 『次の極東大戦の覚悟』東支事情研究会、1937年
- 『非常時局に対する国民常識と修養』大日本航空義会、1937年
- 『日支提携の導き』東邦国策同志会、1938年
- 『次に来たるべき極東大戦の展望』新生社書店、1938年
- 『長期戦の覚悟と軍事の要諦』 軍事通信社、1939年
- 『往時を忍びて呉佩孚氏を語る』国防協会、1939年
- 『日露戦勝の回顧と考察 亜細亜復興の黎明』国防同志会、1941年
- 『東亜建設と国防の諸問題(共著)』東亜親善協会、1940年
- 『銃後の米英撃滅戦』新紘社、1944年
など
出典
[編集]- ^ 『七年史』
- ^ 『慶應年間 会津藩士人名録』
- ^ a b c d 『大衆人事禄』「鈴木一馬」
- ^ 『日露戦勝の回顧と考察』
- ^ 『会津史談会報 第24号』
- ^ 『官報』第3401号「叙任及辞令」1894年10月27日。
- ^ 『官報』第3723号「叙任及辞令」1925年1月22日
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月11日。
参考文献
[編集]- 会津郷土資料研究所 『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
- 会津史談会編 『会津史談 創刊号-第24号』会津史談復刻刊行会
- アジア歴史資料センター
- 「陸軍中将鈴木一馬外三名外国勲章記章受領及佩用允許ノ件 」(ref:A10113023200)
- 「特命全権大使松平恒雄外十一名外国勲章受領及佩用允許ノ件」(ref:A10113022400)