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釜鳴屋平七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

釜鳴屋平七(かまなりや へいしち、1828年文政11年) - 1863年文久3年)11月4日)とは、江戸幕末熱海村(現・熱海市)出身の網元網主)・義民

概要

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安政年間(1855年-1860年)のころ、熱海村ではまぐろ網の権利を巡って村役人・網元と網子の間で対立が生じ、漁場騒動に発展していた[1][2][3]

網元の1人である平右衛門の長男・釜鳴屋平七は、網元たちの強引なやり口に義憤を感じ、網子の側に立って事態を収拾しようとするが叶わず、1859年(安政6年)11月に漁民200人以上と共に、蓑笠に身を包み、旗(むしろばた)を立てながら韮山代官所に押しかけ、代官・江川太郎左衛門(当時は第37代の江川英敏)に訴状を差し出して直訴した[1][2][3]

平七は一揆強訴門訴)の首謀者として捕えられ、約4年投獄された後、一人島流しの刑を受け、1863年(文久3年)10月に江戸から八丈島送りとなったが、途中の大島で11月4日に35歳で死亡した[1][2][3]

残された漁民たちは平七の遺志を継ぎ、長い戦いの後に勝訴を勝ち取った[2]

関連事物

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年表

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脚注

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  1. ^ a b c 釜鳴屋平七とは - コトバンク/日本人名大辞典/朝日日本歴史人物事典
  2. ^ a b c d 銅像脇の立て看板より。
  3. ^ a b c 第14話「郷土の義人 釜鳴屋平七」 - 熱海市役所
  4. ^ 釜鶴の歴史 - 釜鶴ひもの店

関連項目

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外部リンク

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