金炳律
金炳律 김병률 | |
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生年月日 | 1930年 |
出生地 | 日本統治下朝鮮平安北道 |
没年月日 | 2013年11月5日 |
死没地 | 北朝鮮、平壌 |
出身校 |
金日成総合大学 万景台革命学院 |
所属政党 | 朝鮮労働党 |
称号 | 金正日勲章 |
最高人民会議代議員 | |
当選回数 | 6回 |
在任期間 |
1972年12月 - 1977年11月 1982年11月 - 1990年4月 1998年9月 - 2013年11月5日 |
最高指導者 |
金日成(1948年 - 1994年) 金正日(1994年 - 2011年) 金正恩(2011年 - ) |
在任期間 | 2010年4月 - 2013年11月5日 |
在任期間 | 1998年9月 - 2010年4月 |
最高人民会議法制委員会委員 | |
在任期間 | 1998年9月 - 2013年11月5日 |
在任期間 | 1970年11月 - 2013年11月5日 |
その他の職歴 | |
護衛司令部政治委員 (1994年1月 - 不明) | |
中央人民委員会委員 (1986年12月 - 不明) | |
平安北道人民委員会委員長 (1985年6月 - 不明) | |
平安北道党委員会責任書記 (1969年11月 - 不明) |
金炳律 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 김병률 |
漢字: | 金炳律 |
発音: | キム・ビョンユル |
英語表記: | Kim Pyong-ryul |
金 炳律(キム・ビョンユル、朝鮮語: 김병률、1930年 - 2013年11月5日)は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人、政治家。中央裁判所所長、朝鮮労働党中央委員会委員、最高人民会議法制委員会委員、中央人民委員会委員、護衛司令部政治委員などを歴任した。最高人民会議第5、7、8、10~12期代議員。朝鮮人民軍における軍事称号(階級)は大将[1]。金日成主席と共に抗日パルチザン活動に参加した金重権は父親。
経歴
[編集]1930年に日本統治下の平安北道で生まれた[2]。父親は抗日パルチザンの金重権で[1]、1934年に満州で戦死した。万景台革命学院、金日成総合大学を卒業。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、金日成の護衛兵を務めた[2]。父親が抗日活動家であったことから金日成の覚えめでたく[1]1969年に平安北道党委員会責任書記に任命され[2]、1970年に朝鮮労働党中央委員会委員に選出された[2]。1972年に最高人民会議第5期代議員に選出され[2]、1974年に平安北道人民委員会委員長に任命された[2]。1985年に平安北道党委員会責任書記を兼任し[2]、1986年に中央人民委員会委員に選出された[2]。1980年代に重病にかかった際には金日成主席が外国での治療を指示した[1]。1994年に護衛司令部政治委員に就任し[2]、1995年に朝鮮人民軍大将に昇進した[2]。1998年に中央裁判所所長に任命され[2]、最高人民会議法制委員会委員に選出された[2]。2006年5月に中央裁判所代表団を率いてロシアを訪れた[3]。同年9月に開催された第22回世界法律大会に参加するため、中国・北京を訪問した[4]。2010年に最高裁判所に改称された際にも留任した。同年9月28日に開催された朝鮮労働党第3回党代表者会で、朝鮮労働党中央委員会委員に再選され[5]、2011年に金正日総書記が死去した際には、国家葬儀委員会委員に選ばれた[6]。
2013年11月5日に83歳で死去[1]。金正恩第一書記から花輪が贈られた[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 北 김병률 前최고재판소장 사망 聯合ニュース 2013年11月5日
- ^ a b c d e f g h i j k l 김병률 金炳律북한지역정보넷
- ^ 단신중앙재판소대표단 중국 방문 デイリーNK 2006年5月21日
- ^ 단신 中전력공사 대표단 방북 デイリーNK 2005年9月14日
- ^ 北노동당 중앙위원 및 후보위원 명단 聯合ニュース 2010年9月29日
- ^ 北, 장의위원회 김정은 등 232명 구성 デイリーNK 2011年12月19日
参考サイト
[編集] 朝鮮民主主義人民共和国
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