金庾信墓
慶州 金庾信墓 경주 김유신묘 (Tomb of Kim Yu-sin, Gyeongju) | |
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大韓民国指定史跡第21号 (1963年1月21日指定) | |
種類 | 遺跡・墳丘墓(円墳) |
所在地 | 韓国 慶尚北道 慶州市仙桃洞7-1 |
座標 | 北緯35度50分44.7秒 東経129度11分27.5秒 / 北緯35.845750度 東経129.190972度座標: 北緯35度50分44.7秒 東経129度11分27.5秒 / 北緯35.845750度 東経129.190972度 |
面積 | 579,569m2 (1,398m2[1]) |
建設 | 統一新羅時代 文武王14年(674年) |
建設目的 | 伝・金庾信墓 |
建築様式 | 封土墳 |
管理者 | 慶州市 |
所有者 | 慶州市ほか |
ウェブサイト | 국가문화유산포털 |
金庾信墓(きんゆしんぼ、ハングル: 김유신묘〈キムユシンミョ〉)は、韓国、慶尚北道慶州市仙桃洞にある玉女峯(ハングル: 옥녀봉〈オクニョボン〉)の[2]東丘陵の中腹に位置する統一新羅の古墳であり、新羅の将軍で宰相であった金庾信の墓と伝えられる[3]。1963年、金庾信墓は大韓民国指定史跡第21号に指定され、2011年7月28日より慶州金庾信墓(ハングル: 경주 김유신묘)に指定名称が変更された[4]。
概要
[編集]玉女峯の東峰となる松花山(ハングル: 송화산〈ソンファサン〉)の[5]の尾根上斜面に造営された墓は、新羅の陵のなかでもとりわけ広い敷地面積を占めている。墓は南方を向いた[3]円形の封土墳で[6]、直径15.8メートル、高さ5.32メートルである。円形墳の基辺外囲には1.2メートルの[1]護石(ハングル: 호석〈腰石[6]〉)が備えられ、十二支神像が彫刻される[7][8]。その護石の間には1つずつ束石を据える[9]。円墳の外周は石製欄干(玉垣[9])で囲まれ[6]、38本の縦柱と上下2本の貫があるが、大半は新たな石材により修復されている[9]。
十二支神像
[編集]円墳の周囲に巡らされた護石の十二支神像(獣首人身像)の浮き彫りは[10]、8世紀後半に作られたものとされ[11]、統一新羅時代に編成された独特な墳墓装飾として[10]保存状態が良く、優れたものと評価される[12]。獣首人身十二支像は、隋の7世紀初頭(大業年間、605-618年)の副葬品より認められる。また唐の中期(8世紀中頃[13])以降に盛んになる仏教的な十二支像に対し[14]、新羅の王陵を装飾する立像は神将像(十二神将[15])に類似する要素が見られ、これらは新羅王権の護国思想と習合したものと捉えられる[16]。北の子(ネズミ)神に始まる十二支神像は平服の姿で、刀剣・槍・二叉・槌・鉢・宝珠などを手に持つ[17]。
さらに円墳の周辺からは、蝋石(ろうせき)に彫られた[18]武装姿の卯(ウサギ)・午(ウマ)・亥(イノシシ)の十二支神将像が発掘されている[19]。
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十二支神像(子)
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十二支神像(丑)
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十二支神像(寅)
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十二支神像(卯)
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十二支神像(辰)
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十二支神像(巳)
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十二支神像(午)
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十二支神像(未)
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十二支神像(申)
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十二支神像(酉)
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十二支神像(戌)
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十二支神像(亥)
歴史
[編集]金庾信(真平王17年〈595年〉-文武王13年〈673年〉)は、7世紀、三国統一に貢献したことで名高い新羅の武将である[10]。百済、高句麗を倒し、文武王8年(668年)より最高官位の「太大角干」となる[20]。そして文武王13年(673年)に死去した後、835年、興徳王(在位826-836年)の時代に「興武大王」と追尊された[21]。
今日、墳墓前面の左・右に「新羅太大角干金庾信墓」ならびに「開国公純忠壮烈興武王陵」と刻まれた碑石があり[21]、参道の入口には「興武門」が備えられる。また、金角干墓(角干墓[6])とも称されたほか[3][22]、一般に、金庾信将軍(興武大王)墓などと標記される。しかしこの陵墓は、実際には金庾信の墓でないとする説も提起されている[3][23]。
脚注
[編集]- ^ a b “사적 제 21호 김유신묘(金庾信墓)”. 신라문화유산연구원 (2021年). 2023年2月18日閲覧。
- ^ 東、田中 (1988)、105頁
- ^ a b c d 山本 (1978)、5頁
- ^ “경주 김유신묘(慶州 金庾信墓)”. 국가문화유산포털. 문화재청. 2023年2月23日閲覧。
- ^ 東、田中 (1988)、105・174-175頁
- ^ a b c d 東、田中 (1988)、123頁
- ^ “호석(護石)”. 한국학중앙연구원. 2023年2月23日閲覧。
- ^ 「歴史探訪 韓国の文化遺産」編集委員会 (2016)、122頁
- ^ a b c 山本 (1978)、6頁
- ^ a b c 姜徳相、鄭早苗、中山清隆 編『図説 韓国の歴史』金両基(監修)(新装改訂2版)、河出書房新社〈ふくろうの本〉、2002年(原著1988年)、59頁。ISBN 978-4-309-76009-4。
- ^ 東、田中 (1988)、136-138頁
- ^ 山本 (1978)、5頁
- ^ 東、田中 (1988)、137頁
- ^ 網干 (2003)、10-14・21頁
- ^ 加藤 (2005)、31頁
- ^ 東、田中 (1988)、123・138頁
- ^ 山本 (1978)、5-6頁
- ^ 東、田中 (1988)、136頁
- ^ “蝋石製十二支像(卯)”. 國立中央博物館. 2023年2月23日閲覧。
- ^ 黒田 (1982)、119頁
- ^ a b 多胡吉郎 (2014年10月8日). “風はるか - ぐるっと韓国歴史紀行〈38〉英雄、金庾信将軍の墓”. 民団新聞 (在日本大韓民国民団) 2023年2月23日閲覧。
- ^ “慶州金角干墓護石十二神像拓本”. e뮤지엄. 국립중앙박물관. pp. 1-3. 2023年2月18日閲覧。
- ^ 「歴史探訪 韓国の文化遺産」編集委員会 (2016)、123頁
参考文献
[編集]- 山本智教「韓国古美術巡礼」『密教文化』第124号、密教研究会、1978年12月15日、1-30頁、doi:10.11168/jeb1947.1978.124_1、ISSN 0286-9837、2023年2月23日閲覧。
- 黒田達也「新羅官位制についての若干の疑問」『大阪府立工業高等専門学校研究紀要』第16巻、大阪府立工業高等専門学校、1982年10月1日、117-126頁、doi:10.24729/00008032、2023年2月23日閲覧。
- 東潮、田中俊明『韓国の古代遺跡 1 新羅篇(慶州)』森浩一(監修)、中央公論社、1988年。ISBN 4-12-001690-0。
- 網干善教「十二支の展開と獣頭人身像」『関西大学博物館紀要』第9号、関西大学博物館、2003年3月31日、1-33頁、ISSN 13414895、NAID 110001136995、2024年1月13日閲覧。
- 加藤真二「中国における獣頭人身十二支像の展開」『奈良文化財研究所紀要』、奈良文化財研究所、2005年、30-31頁、ISSN 13471589、2024年1月13日閲覧。
- 「歴史探訪 韓国の文化遺産」編集委員会 編『歴史探訪 韓国の文化遺産 下 慶州・釜山』山川出版社、2016年。ISBN 978-4-634-15088-1。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 「慶州 金庾信将軍の墓(경주 김유신묘)」『Korea Trip Tips』、韓国観光公社 。