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金庾信墓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
慶州 金庾信墓
경주 김유신묘
(Tomb of Kim Yu-sin, Gyeongju)
大韓民国指定史跡第21号
(1963年1月21日指定)
種類遺跡墳丘墓円墳
金庾信墓 김유신묘の位置(大韓民国内)
金庾信墓 김유신묘
金庾信墓
김유신묘
金庾信墓
김유신묘 (大韓民国)
所在地大韓民国の旗 韓国
慶尚北道 慶州市仙桃洞朝鮮語版7-1
座標北緯35度50分44.7秒 東経129度11分27.5秒 / 北緯35.845750度 東経129.190972度 / 35.845750; 129.190972座標: 北緯35度50分44.7秒 東経129度11分27.5秒 / 北緯35.845750度 東経129.190972度 / 35.845750; 129.190972
面積579,569m2 (1,398m2[1])
建設統一新羅時代
文武王14年(674年)
建設目的伝・金庾信
建築様式封土墳朝鮮語版
管理者慶州市
所有者慶州市ほか
ウェブサイト국가문화유산포털
金庾信墓の位置(大韓民国内)
金庾信墓
大韓民国における慶州 金庾信墓
경주 김유신묘
(Tomb of Kim Yu-sin, Gyeongju)の位置

金庾信墓(きんゆしんぼ、ハングル김유신묘〈キムユシンミョ〉)は、韓国慶尚北道慶州市仙桃洞朝鮮語版にある玉女峯(ハングル옥녀봉〈オクニョボン〉)の[2]東丘陵の中腹に位置する統一新羅の古墳であり、新羅将軍宰相であった金庾信の墓と伝えられる[3]。1963年、金庾信墓は大韓民国指定史跡第21号に指定され、2011年7月28日より慶州金庾信墓ハングル경주 김유신묘)に指定名称が変更された[4]

概要

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玉女峯の東峰となる松花山(ハングル송화산〈ソンファサン〉)の[5]の尾根上斜面に造営された墓は、新羅の陵のなかでもとりわけ広い敷地面積を占めている。墓は南方を向いた[3]円形の封土墳朝鮮語版[6]、直径15.8メートル、高さ5.32メートルである。円形墳の基辺外囲には1.2メートルの[1]護石(ハングル호석〈腰石[6]〉)が備えられ、十二支神像が彫刻される[7][8]。その護石の間には1つずつ束石を据える[9]。円墳の外周は石製欄干(玉垣[9])で囲まれ[6]、38本の縦柱と上下2本のがあるが、大半は新たな石材により修復されている[9]

十二支神像

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円墳の周囲に巡らされた護石の十二支神像(獣首人身像)の浮き彫り[10]、8世紀後半に作られたものとされ[11]統一新羅時代に編成された独特な墳墓装飾として[10]保存状態が良く、優れたものと評価される[12]。獣首人身十二支像は、の7世紀初頭(大業年間、605-618年)の副葬品より認められる。またの中期(8世紀中頃[13])以降に盛んになる仏教的な十二支像に対し[14]、新羅の王陵を装飾する立像は神将像(十二神将[15])に類似する要素が見られ、これらは新羅王権の護国思想と習合したものと捉えられる[16]。北のネズミ)神に始まる十二支神像は平服の姿で、刀剣・二叉・宝珠などを手に持つ[17]

さらに円墳の周辺からは、蝋石(ろうせき)に彫られた[18]武装姿のウサギ)・ウマ)・イノシシ)の十二支神将像が発掘されている[19]

歴史

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金庾信真平王17年〈595年〉-文武王13年〈673年〉)は、7世紀、三国統一に貢献したことで名高い新羅の武将である[10]百済高句麗を倒し、文武王8年(668年)より最高官位の「太大角干朝鮮語版」となる[20]。そして文武王13年(673年)に死去した後、835年、興徳王(在位826-836年)の時代に「興武大王」と追尊された[21]

今日、墳墓前面の左・右に「新羅太大角干金庾信墓」ならびに「開国公純忠壮烈興武王陵」と刻まれた碑石があり[21]、参道の入口には「興武門」が備えられる。また、金角干墓(角干墓[6])とも称されたほか[3][22]、一般に、金庾信将軍(興武大王)墓などと標記される。しかしこの陵墓は、実際には金庾信の墓でないとする説も提起されている[3][23]

脚注

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  1. ^ a b 사적 제 21호 김유신묘(金庾信墓)”. 신라문화유산연구원 (2021年). 2023年2月18日閲覧。
  2. ^ 東、田中 (1988)、105頁
  3. ^ a b c d 山本 (1978)、5頁
  4. ^ 경주 김유신묘(慶州 金庾信墓)”. 국가문화유산포털. 문화재청. 2023年2月23日閲覧。
  5. ^ 東、田中 (1988)、105・174-175頁
  6. ^ a b c d 東、田中 (1988)、123頁
  7. ^ 호석(護石)”. 한국학중앙연구원. 2023年2月23日閲覧。
  8. ^ 「歴史探訪 韓国の文化遺産」編集委員会 (2016)、122頁
  9. ^ a b c 山本 (1978)、6頁
  10. ^ a b c 姜徳相鄭早苗、中山清隆 編『図説 韓国の歴史』金両基(監修)(新装改訂2版)、河出書房新社〈ふくろうの本〉、2002年(原著1988年)、59頁。ISBN 978-4-309-76009-4 
  11. ^ 東、田中 (1988)、136-138頁
  12. ^ 山本 (1978)、5頁
  13. ^ 東、田中 (1988)、137頁
  14. ^ 網干 (2003)、10-14・21頁
  15. ^ 加藤 (2005)、31頁
  16. ^ 東、田中 (1988)、123・138頁
  17. ^ 山本 (1978)、5-6頁
  18. ^ 東、田中 (1988)、136頁
  19. ^ 蝋石製十二支像(卯)”. 國立中央博物館. 2023年2月23日閲覧。
  20. ^ 黒田 (1982)、119頁
  21. ^ a b 多胡吉郎 (2014年10月8日). “風はるか - ぐるっと韓国歴史紀行〈38〉英雄、金庾信将軍の墓”. 民団新聞 (在日本大韓民国民団). https://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=7&page=72&number=19468&keyfield=&keyfield1=&key= 2023年2月23日閲覧。 
  22. ^ 慶州金角干墓護石十二神像拓本”. e뮤지엄. 국립중앙박물관. pp. 1-3. 2023年2月18日閲覧。
  23. ^ 「歴史探訪 韓国の文化遺産」編集委員会 (2016)、123頁

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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北緯35度50分44.7秒 東経129度11分27.5秒 / 北緯35.845750度 東経129.190972度 / 35.845750; 129.190972