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金子弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かねこ ひろし
金子 弘
本名 同じ
別名義 金村 春夫(かねむら はるお)
金子 鐡郎(かねこ てつお)
金子 春吉(かねこ はるきち)
生年月日 (1904-03-27) 1904年3月27日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区
職業 俳優
ジャンル 歌劇新劇劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1915年 - 1943年
著名な家族 若月一郎(養父)
主な作品
一殺多生剣
斬人斬馬剣
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金子 弘(かねこ ひろし、1904年3月27日 - 没年不詳)は、日本の俳優である[1][2]。本名同じ[1][2]。旧芸名は金村 春夫(かねむら はるお)など[1][2]日活大将軍撮影所日活太秦撮影所などで長く活躍した、伊藤大輔監督映画の常連である。特技は乗馬水泳ビリヤード[1]

来歴・人物

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1904年(明治37年)3月27日東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)に生まれる[1][2]

1915年(大正4年)、11歳の時に養父である若月一郎の新歌劇の一座で初舞台を踏む[1][2]。正則中学校(現在の正則高等学校)に進学し、学業の傍ら西野薫一座の芝居に参加する[1]

1922年(大正11年)、同中学校を卒業して日活向島撮影所に入社[1][2]金村春夫名義で数本の作品に出演。ところが1923年(大正12年)9月関東大震災が発生。それに伴い、日活を退社して養父・若月を助けて佐藤歳三一党と合同して、関東地方を巡業する[1]1924年(大正14年)4月には無産新劇団を組織して関西・九州地方を巡業したが、内紛が起こり、間も無く解散[1]。同年6月日活大将軍撮影所現代劇部に入社し、金子鐡郎名義でここでも数本の作品に出演したが、1925年(大正15年)、徴兵検査に合格して金子は陸軍歩兵学校に入校する[1][2]

1926年(昭和元年)末、日活に復帰[1][2]。今度は時代劇部に所属するが、特に伊藤大輔監督映画に多く出演する。即ち1927年(昭和2年)公開の映画『忠次旅日記』三部作に出演したあと日活太秦撮影所に移り、『下郎』『新版大岡政談』全三篇などに出演し人気を得た。後に本名の金子弘名義で出演するが、1928年(昭和3年)10月、伊藤の日活解雇に伴い、金子も同行して市川右太衛門プロダクション松竹などの作品に出演する[1][2]

1930年(昭和5年)4月、伊藤は日活に復帰。1996年(平成8年)に発行された『日本映画人名事典 男優篇 上巻』(同項の執筆岡部龍司馬叡三)などほとんどの資料では以後の金子の消息は調査不能とする[1][2]が、実際は阪東妻三郎プロダクション朝日映画聯盟などを転々とした後に日活に復帰しており、金子春吉名義で1943年(昭和18年)に公開された大映東京撮影所製作の山本弘之監督映画『重慶から来た男』まで出演作品が確認出来る。ただし、以後の消息は不明である。没年不詳

芸名

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出演作品

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、163頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j 『芸能人物事典 明治大正昭和』日外アソシエーツ、1998年。

外部リンク

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