野間三竹
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野間 三竹(のま さんちく、1615年6月4日(慶長20年5月8日) - 1676年9月25日(延宝4年8月18日))は、江戸時代の医師・漢学者・儒学者。名は成大、字は子苞、通称三竹。別号は静軒・柳谷・潜楼・白雲洞・寿昌院・北山山人など。父は医師の野間玄琢。母は神崎氏。妻は本多正勝の女。野間允迪は子。
来歴
[編集]詳細な年譜は伊藤善隆「野間三竹年譜稿」に詳しい[1]。
1615年(元和元年)5月8日生まれ(1608年(慶長13年)説もある)[1]。父の野間玄琢に就いて医学を修め、1636年(寛永13年)に法橋、1638年(寛永15年)に法眼となる[2]。1640年(寛永17年)奥医として東福門院に付属し、以降は隔年で江戸に出仕する[2]。1648年(正保3年)家督を相続。1668年(寛文8年)法印となる[2]。
幼時から松永貞徳や松永尺五、林羅山に学び、医師としての公務の傍ら、読書や著述に没頭した。生涯にまとめた著作は40編ほどになるとされる[2]。著作の多くは漢籍からの抄録再編集だが、その内容は医学・歴史・文学・語学・歴史など多岐にわたる[2]。江戸と京を隔年で行き来したため、石川丈山・林羅山・林鵞峰・林読耕斎らと親しく交わり、書簡や詩文、書物などを仲介していた[1]。