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野辺地慶三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野辺地 慶三(のべち けいぞう、1890年明治23年)5月11日 - 1978年昭和53年)6月25日[1])は、昭和時代の細菌学者公衆衛生学者

経歴・人物

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岩手県盛岡市新築地(現・大通三丁目)にて野辺地慶治・せんの三男として生まれる[2]。盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)、第一高等学校(現・東京大学教養学部)を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学医学部を卒業した[1][2]。卒業後、伝染病研究所に入り、血清学的にコレラ菌を3つに分類できることを提唱した[2]。また、1923年(大正12年)から米国に留学し、ハーバード大学公衆衛生学部を首席で卒業し、公衆衛生学博士となり、1927年(昭和2年)に帰国した[2]。帰国後は国立公衆衛生院の創設と運営に尽くし、日本の保健所制度の礎を築いた[2]。戦後は日本大学名古屋大学で指導した[2]1973年(昭和48年)、これら功績により世界保健機構よりレオン・ベルナール賞を日本人として初めて受賞した[2]

脚注

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  1. ^ a b 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ)『野辺地 慶三』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g 第63回:野辺地慶三(のべちけいぞう)|盛岡市公式ホームページ、2019年3月20日閲覧。