野村碩胤
野村 碩胤(のむら せきたね、1882年(明治15年)1月28日 - 没年不明)は明治時代から昭和時代の医者。朝明郡(富田六郷)の一部であった天ヶ須賀村出身の学校医。現在の三重県四日市市の一部である天ヵ須賀地区出身。古い地名の旧名では天ヶ須賀(四日市市の住所制度では天ヵ須賀)地区の医師で富洲原地区の教育者。
年譜
[編集]野村家は天ヶ須賀村の儒学者・近代教育者で三重郡富洲原町の平均寿命の向上に貢献した地域医師の家柄である。野村碩胤は野村良意の子供として1882年(明治15年)1月28日に天ヶ須賀村にて誕生する。天ヶ須賀学校だった天ヶ須賀簡易科授業所(現在の四日市市立富洲原小学校)卒業後→旧制医学専門学校の京都医学専門学校(現在の京都府立医科大学)を卒業した。さらにこの学生時代に学費の備蓄があったので医療技術を極めて2ヵ年の期間をかけて付属病院の内科で医学を研究して、1908年(明治41年)に三重郡富洲原町の全診療科の診療所を開業して昭和時代に至る。他方面の活躍では三重郡富洲原町立の富洲原尋常高等小学校(現在の四日市市立富洲原小学校)の小学校の児童と教師の医師である校医を兼務して、三重郡富洲原町から町医として嘱託を受けている。後に、天ヶ須賀本町に富洲原町民の信望を得て、明治時代から昭和時代(戦前期)までの大日本帝国時代に「野村医院」を開業していた[1]。
野村家
[編集]父は富田一色村の一色学校と合併して四日市市立富洲原小学校となった天ヶ須賀学校の基礎を築いた教育者である。1877年(明治10年) に天ヶ須賀村の本町のそろばん屋付近に創立された明願寺の山門の両側に2つの教室と教師2名で組織された天ヶ須賀学校の基礎となる寺子屋を開校した儒教道徳者で教育者の野村良意。富洲原港と塩役運河付近の天ヶ須賀本町自治会のそろばん教室(珠算学園)となっていた隣りの土地に立地していた明治時代の古い木造の校舎を想像する個人経営の医院が野村家だった。明治時代の古いデザインの門や柵が特徴だった建造物が、野村医院の跡地である。野村医院跡地付近に野村碩胤の子孫の野村家の本家があり、子孫である野村家の男子は代々野村碩胤の<胤>の文字を襲名している。[2]
参考文献の記述内容
[編集]参考文献の『地方発達史』には以下の記述がある。『医学の発達と共に、近代日本の臨床医学は長い速度の進歩をして、先進国を凌ぐ。こうして医者の家として重大な使命の1つはこの医薬的療法のみならず、この患者をして能力精神的方面にも療養の効果を興してこの医療効果をして充分にして、野村碩胤は知識の先見の明がある人格と高潔で見る目があり、医者として患者に接して親切で、才能は仁徳と武術の儒学の事情に従事して、天ヶ須賀本町にこの信望を得て、徳望を集めて、「野村医院」を開業していた。完備している入院室を新築して、この病院設備を完備して、加えて野村碩胤の優秀な素養と医療技術は年々向上する』との内容の記述がある。
参考文献
[編集]- 四日市市立富洲原小学校100周年記念誌(1976年発行)
- 『地方発達史とこの人物三重県』(三重郡之)の部「富洲原町」(1935年)