野宮定穀
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野宮定穀 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永6年7月17日[1](1853年8月21日) |
死没 | 大正13年(1924年)3月22日[1][2] |
主君 | 明治天皇→大正天皇 |
氏族 | 竹屋家→野宮家 |
父母 |
父:竹屋光有、母:家女房 養父:野宮定功 |
兄弟 |
竹屋光昭、定允、定功 養兄弟:定平、定美 |
妻 |
先室:健(戸田氏彬の養女) 後室:餘年子(正親町三条実愛の七女) |
子 | 定茂、綾小路護、進 |
野宮 定穀(ののみや さだよし)は、幕末の公家、明治から大正期の宮内官・政治家・華族。貴族院子爵議員。
経歴
[編集]山城国京都で権中納言・竹屋光有の三男[注 1]として生まれ、慶応2年12月2日(1867年1月7日)、権中納言・野宮定功の養子となる[1][3][4]。同月8日、従五位下に叙され、慶応4年5月8日(1868年6月27日)に元服し昇殿を許された[3][4]。1880年(明治13年)12月2日、養父の隠居に伴い家督を継承[3][4]。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[5]。
1876年(明治9年)12月、宮中祗候に就任[2][4]。以後、滋宮祗候、青山御所勤番、同祗候、英照皇太后御葬祭斎官、大喪使祭官などを務めた[2][4]。
1897年(明治30年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[6][7]、1904年(明治37年)7月9日まで在任[2]。1905年(明治38年)4月8日、貴族院子爵議員補欠選挙で再選され[8][9]、1918年(大正7年)7月9日まで通算3期在任した[2]。
系譜
[編集]- 父:竹屋光有
- 母:家女房[3]
- 養父:野宮定功
- 先妻:健(たけ、戸田氏正四女、戸田氏彬養女)[1]
- 後妻:餘年子(よねこ、嵯峨実愛七女、1879年5月結婚)[1][4]
- 義兄弟・嵯峨公勝
- 四男:野宮定茂(子爵)[1][4][10]
- 息子:野宮進 (貴族院多額納税者議員 高谷豊之助の長女せつの夫)[11]
- 五男:綾小路護(貴族院子爵議員、綾小路家政養子)[1][4]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『華族畫報 下』568頁、『人事興信録 第6版』の23頁では二男。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 『野宮家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
- 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
- 杉謙二編『華族畫報 下』吉川弘文館、2011年(華族画報社大正2年刊の複製)。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 野宮家初代 1884年 - 1924年 |
次代 野宮定茂 |