野坂操壽 (初代)
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初代 野坂 操壽 | |
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出生名 | 野坂 操(のさか みさお) |
生誕 | 1905年1月22日 |
出身地 | 東京府東京市 |
死没 | 2002年2月3日(97歳没) |
学歴 | 氷川尋常小学校卒業 |
ジャンル | 伝統音楽 |
職業 | 箏曲家 |
担当楽器 | 箏 |
活動期間 | 1923年 - |
事務所 | 生田流箏曲松の実會 |
初代 野坂 操壽(しょだい のさか そうじゅ、1905年1月22日 - 2002年2月3日)は、日本の箏曲家。勲等は勲五等。本名は野坂 操(のさか みさお)。名の「壽」は旧字体のため、新字体で初代 野坂 操寿(しょだい のさか そうじゅ)と表記されることもある。
生田流箏曲松の実會主宰、社団法人日本三曲協会相談役などを歴任した。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1905年1月22日、東京府東京市にて生まれた。氷川尋常小学校に在学中から箏を学んでおり、1915年より大伯母である箏曲家の松島糸壽に師事した。なお、明治時代の東京府では当初山田流の箏曲が盛んであったが[1]、九州地方から箏曲家や地歌家が続々と上京してきたことから[1]、一転して九州系箏曲地歌が注目を浴びるようになった[1]。そのなかでも糸壽は九州から東京に進出した箏曲家の嚆矢とされており[1]、野坂は糸壽から九州系箏曲地歌の手ほどきを受けた。1917年、氷川尋常小学校を卒業した。また、1923年からは箏曲家の宮城道雄に師事した。
箏曲家として
[編集]1923年に独立し、翌年より「野坂操壽」を名乗った。生田流箏曲松の実會を創設するとともに、生田流協会や日本三曲協会などで要職を歴任した。後進の育成にも取り組んでおり、指導した者の中から野坂惠子といった箏曲家などを輩出している[2]。また、声楽家の永井郁子や作曲家の高木東六らと新しい音楽の会を開催するなど、伝統に囚われず新しい試みにも積極的に取り組んだ。2002年2月3日、肝硬変のため東京都渋谷区の自宅で死去した[3]。なお、その翌年、長女の惠子が二代目操壽を襲名した[2]。
略歴
[編集]栄典
[編集]家族・親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 久保田敏子「長谷検校と九州系地歌」『東京に出た九州系地歌箏曲家たち|長谷検校と九州系地歌|長谷検校記念 くまもと全国邦楽コンクール』くまもと大邦楽祭実行委員会。
- ^ a b 「野坂操壽(野坂惠子)プロフィール」『野坂操壽プロフィール』生田流箏曲松の実會。
- ^ 「野坂操寿さん死去/箏曲家、日本三曲協会相談役」『野坂操寿さん死去/箏曲家、日本三曲協会相談役 | 全国ニュース | 四国新聞社』四国新聞社、2002年2月5日。
関連人物
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ++matsunomi.net++ - 生田流箏曲松の実會の公式ウェブサイト