重野謙次郎
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重野 謙次郎(しげの けんじろう、嘉永7年10月27日[1](1854年12月16日) - 昭和5年(1930年)11月5日[2])は、衆議院議員(自由党→憲政党→立憲政友会)。
経歴
[編集]出羽国天童に天童藩士重野謙次郎の子として生まれる。戊辰戦争では藩主に従い奔走した。1869年(明治2年)、藩命により東京に遊学。一度は郷里に戻るも再び上京し、講学法社で法学を学んだ。1880年(明治13年)に山形で「法律学社」を創設し、自由民権運動を推進した。また集会条例改正を建白したことで衆望を集め、翌年に山形県会議員に選出され、後には副議長に就任した。1887年(明治20年)に上京し、三大事件建白運動に参加するが、保安条例により東京から退去を命じられた。その後、大同団結運動に加わり、山形大同倶楽部を組織した。
1889年(明治22年)、山形市会議員に選出され、議長に就任した。また1891年(明治24年)には県会でも議長に推された。1893年(明治26年)、衆議院議員補欠選挙に出馬し、当選。当選回数は合計で5回を数えた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。