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釈家奴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
釈加奴から転送)
釈家奴
名称表記
女真名
  • 釈家奴 (明英宗實錄)
  • 釈迦奴 (明英宗實錄)
漢語名 李顕忠
生歿即位
出生年 不詳
死歿年 不詳
一族姻戚
阿哈出 (初代建州衛主)
猛哥不花 (毛憐衛主)
李満住 (三代建州衛主)

釈家奴[1][2](漢名李顕忠) は古倫氏女真族。初代建州衛衛主・阿哈出の子[3]で、二代目衛主。

この代で、代々居住した三姓地方 (現黒龍江省ハルピン市イラン県)[4]から建州衛の設置された鳳州 (現吉林省通化市梅河口市山城鎮) に移徙したとされる。

年表

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永楽8年 (1410) 旧暦8月、蒙古 (韃靼) 征討 (永楽帝親征に従軍) での戦功により都指揮僉事 (正三品) に昇格。併せて漢名「李顕忠」を下賜された[5]

永楽9年 (1411) 年旧暦9月、明朝が釈家奴からの推挙を受諾し、釈家奴の弟・猛哥不花を毛憐衛指揮使 (正三品) に任命[6]

永楽10年 (1412) 旧暦6月、建州衛に帰順した塔温不詳の民衆への食糧支援を明朝に奏請。が配給された[7]

永楽10年 (1412)、釈家奴らがそれぞれの一家を引率れて三姓地方 (現黒龍江省ハルピン市イラン県) から建州 (現吉林省) に移住したが、凶作で食糧が不足し、明朝に支援を要請。粟が配給された[8]

永楽11年 (1413) 旧暦10月、毛憐衛主・猛哥不花とともに入貢[9]

永楽14年 (1416) 旧暦正月、毛憐衛主・猛哥不花とともに入貢[10]

永楽15年 (1417) 旧暦12月、顔春 (現ロシア連邦ポシェト湾頭)[11]地方の領袖・月児速哥が一族を率いて建州衛への帰属を希望したため、明朝側に奏請。明朝は允許した[12]

永楽16年 (1418) 旧暦2月、衛内の部下の功労に対する褒賞を奏請。明朝は功労のあった数人の官職を昇格させた[13]

永楽17年 (1419) 旧暦3月、明朝が釈家奴からの推挙を受諾して27人の官職を昇格させた。[14]

永楽20年 (1422) ごろ、死去。[15]

脚註

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  1. ^ 『明實錄』にみられるのは「釈奴」と「釋奴」(正統7年2月13日の記事) の二通り。维基百科は「釋奴」を挙げているが典拠不詳。普通話では「家」も「加」も同じ「jiā」の音。
  2. ^ 稻葉岩吉は『清朝全史』上巻 (p.32) において「釋家奴シヤチヤヌ」とルビを振っている。普通話拼音では「shìjiānú」。時代が降ってイェヘ西城主・チンギヤヌは漢語で「逞家奴」などと表記されるが、その満洲語転写はcinggiyanu。「-家奴」という漢字表記を共有しながらその読みが異なるため、ここではあくまで参考程度の紹介に止める。
  3. ^ 维基百科は概略で長子としながら、家族構成の章節においては猛哥不花の弟とし、矛盾している上に、どちらも典拠不詳。『明實錄』や『李朝實錄』などをみる限りでは特に兄弟の序列は触れられていない。
  4. ^ 釈家奴の一族はもともと三姓地方の胡里改万戸府に住み、その後諸々の原因で南下した。
  5. ^ “永樂八年八月21日段10012”. 明太宗實錄. 107. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001010012^@@152289981#top 
  6. ^ “永樂九年九月3日段10286”. 明太宗實錄. 119. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001010286^@@1259089956#top 
  7. ^ “永樂十年六月8日段10531”. 明太宗實錄. 129. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001010531^@@49567565#top 
  8. ^ “永樂十年十一月28日段10646”. 明太宗實錄. 134. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001010646^@@517547983#top 
  9. ^ “永樂十一年十月28日段10842”. 明太宗實錄. 144. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^22^^^2@@742518720#top 
  10. ^ “永樂十四年正月20日段11385”. 明太宗實錄. 172. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001011385^@@1096243323#top 
  11. ^ 河内良弘 1960, p. 100-102, (2) 毛憐衛 浪ト見看の鳳州移動
  12. ^ “永樂十五年十二月27日段11800”. 明太宗實錄. 195. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001011800^@@1872722992#top 
  13. ^ “永樂十六年二月29日段11840”. 明太宗實錄. 197. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001011840^@@1762774265#top 
  14. ^ “永樂十七年三月24日段12042”. 明太宗實錄. 210. 不詳. https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/mqlc/hanjishilu?@17^1158034350^809^^^0211001012042^@@1891928352#top 
  15. ^ 维基百科には西暦1422年前後に死去とあり、参照文献として『中国民族史人物辞典』を挙げているが、詳細不明。ただ、『明實錄』では宣徳元年 (1426) から釈家奴の子・李満住の名が現れ、且つ永楽22年 (1424) には李満住が建州衛を引き連れて婆諸江に移住しているため (李朝世宗實錄24巻)、少なくともこのころまでには死去していた可能性が高い。维基百科は宣徳元年 (1426) をもって李満住が衛主の地位を承継したとしているが、これも典拠なし。

参照

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文献

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研究書

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論文

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  • 河内良弘「建州女直の移動問題」『東洋史研究』第19巻第2号、東洋史研究会、1960年10月、212-281頁、CRID 1390009224833843200doi:10.14989/148180hdl:2433/148180ISSN 0386-9059 

Webサイト

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