酒井直隆
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 天和元年(1681年) |
死没 | 享保5年(1720年) |
改名 | 重俊→直隆 |
別名 | 権七郎、権平、図書 |
墓所 | 山形県鶴岡市家中新町 大督寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 酒井忠真 |
藩 | 出羽庄内藩家老 |
氏族 | 酒井氏 |
父母 | 父:酒井重秋、養父:酒井忠直 |
兄弟 | 重喬、直隆、重頼、重一 |
妻 | 正室:本多荘太夫の娘 |
子 | 直通、忠休 |
酒井 直隆(さかい なおたか)は、江戸時代中期の武士。出羽庄内藩一門家老。酒井奥之助家第2代。出羽松山藩3代藩主酒井忠休の実父。
経歴
[編集]天和元年(1681年)、庄内藩番頭酒井重秋の四男として生まれる。初名は重俊。父重秋は、藩祖酒井家次の五男で5000石の旗本であった了次の嫡子忠崇の子で、宗家の家臣となっていた。
貞享4年(1687年)、父の家督と知行300石を相続。元禄13年(1700年)、庄内藩初代藩主酒井忠勝六男忠直の遺跡を相続。直隆と改名して1000石を知行し家老となり藩主忠真に仕える。
享保5年(1720年)死去。享年40。家督は嫡男直通が相続し、享保15年(1730年)、死去。その跡を実弟直豫が相続。直豫は、享保17年(1732年)、出羽松山藩2代藩主酒井忠予の養子として迎えられ、家督を相続し3代藩主忠休となったため、酒井奥之助家の家督は、直隆の実弟重一の長男直恭が相続した。酒井奥之助家は、了次の子孫の酒井吉之允(玄蕃)家と並んで「両敬家」[1]と呼ばれ藩内で重きを成した。
脚注
[編集]関連項目
[編集]- 酒井直次 (陸軍軍人) - 子孫・陸軍中将
参考文献
[編集]- 庄内人名辞典刊行会『新編庄内人名辞典』