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酒井伴四郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

酒井 伴四郎(さかい はんしろう[1]天保5年7月21日(1834年8月25日) - ?)は、紀州和歌山藩の下級武士。高は30で、大番組のうちの駿河組に属していた[2]彰常(あきつね)。なお、名前の読みについては推測である[1]

最初の妻・飛路(病没)との間に長女の歌(宇多)[2]、後妻・富貴との間に長男の鉄蔵がいた。ほかに江戸勤番を務めた叔父の宇治田平三もいた。

伴四郎の日記

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万延元年(1860年)6月から翌年12月(西暦では1862年1月)まで、衣紋方の勤務のため江戸勤番となった際に、詳細な日記を記した[3]。日記は「酒井伴四郎日記」とも呼ばれる[3]。この日記は、林英夫が発見し、歴史学者の竹内誠に託された後、2008年に竹内から東京都江戸東京博物館に寄贈された[4]

現存する日記は、万延元年6月から11月までの半年分[5]であるが、その間、日々の暮らしや出来事を詳細に記録しており、幕末期の江戸の武士の生活や食生活、江戸文化を知る文献となっている。藤本清二郎政治史、情報史(情報の伝達や流布に関する研究)、街道旅行や名所参詣の歴史といった観光史、和装服飾史、下級武家の生活史、食生活史などの幅広い分野の研究に資すると評している[6]

江戸勤番とその後

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宇治田平三の口利きで江戸に呼ばれた伴四郎は、万延元年5月11日に紀州を出発し、同29日に江戸に到着[4]。平三も衣紋方で、知行は25石の下級家臣だった[7]

衣紋方の勤務には余裕があり、日記として残されている半年間の出仕は計47日(最長で8月の13日間、最短で7月の出仕なし。しかも勤務時間は午前中の2時間から4時間程度)である[6]。他は全て長屋で留守居か物見遊山、寺院への参拝、三味線の稽古、食べ歩きなどに費やしており、この時間的余裕が日記を成立させたともいえる。また、支藩である伊予西条藩の藩士との交流も日記に記載されており、情報交換なども活発だったことが窺える(江戸勤番の際、西条藩士の小野田喜代助と小林金右衛門が同道して江戸に入っており、また6月24日に伴四郎が西条藩邸の彼らを訪問し、酒を飲んで帰るといった記載が日記にある)。

約3年2か月後の元治2年(1865年)2月より、紀州藩主徳川茂承の参勤に従い、酒井は再び江戸勤務となった。しかし、第二次長州戦争の勃発に伴い、3か月後の同年5月末に和歌山へ戻り、6月には長州に向けて出発した。長州藩との戦闘にも参加したが負傷することなく、その後は和歌山に戻って引き続き衣紋方として勤務した。この間の日記の一部も発見されており、慶応2年(1866年)8月には組頭、翌慶応3年4月には奥詰に出世していることが分かっている[6]

島村妙子の論文『幕末下級武士の生活の実態 紀州藩一下士の日記を分析して』によれば、慶応3年8月に、妻の飛路が病気と出産が元で亡くなった。明治2年(1869年)4月、富貴(当時30歳)と再婚し、翌3年(1870年)11月に長男の鉄蔵が生まれる。故郷に帰った後の伴四郎は、自宅の庭の草取り、発句会への出席、囲碁などをして過ごしたという[8]

現代における扱い

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出典・脚注

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  1. ^ a b 酒井, 伴四郎, 1834-”. 国立国会図書館件名標目表 (2017年3月28日). 2018年11月19日閲覧。
  2. ^ a b 田澤拓也『江戸の名所 お上り武士が見た華の都』小学館新書、11頁。
  3. ^ a b 謎解き!江戸のススメ 「武士の余暇」”. 2016年1月5日閲覧。謎解き!江戸のススメ2012年6月18日放送
  4. ^ a b c 田澤拓也『江戸の名所 お上り武士が見た華の都』小学館新書、10頁。
  5. ^ 万延2年12月に江戸勤番を終え、和歌山へ戻る前後数日間の日記も発見されている。
  6. ^ a b c d 清文堂出版:紀州藩士酒井伴四郎関係文書〈小野田一幸・髙久智広編〉”. 2016年1月5日閲覧。
  7. ^ 田澤拓也『江戸の名所 お上り武士が見た華の都』小学館新書、11-12頁。
  8. ^ a b 田澤拓也『江戸の名所 お上り武士が見た華の都』小学館新書、186-187頁。
  9. ^ a b 平成23年度 『幕末単身赴任』前原康貴”. 2016年1月5日閲覧。
  10. ^ 主な登場人物(キャスト)”. NHK. 2017年1月9日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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