鄭小同
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鄭 小同(てい しょうどう、興平2年(194年)? - ?)は、中国三国時代の魏に仕えた儒学者。字は子真[1]。祖父は鄭玄。父は鄭益[2]。本貫は青州北海国高密県の出身。
経歴
[編集]父の鄭益は後漢時代末期に、北海国相の孔融に孝廉に挙げられ、仕えた(23歳)[3]。黄巾軍の管亥が孔融の居城を包囲する。鄭益は孔融の救出をはかり交戦するが戦死した(27歳)[4]。鄭小同は父の遺腹の子で、丁卯の日に生まれた。祖父は丁卯の年に生まれ、また手相がよく似ていたので、孫に「小同」と名付けた。
魏が成立した後、華歆は曹丕(文帝)に上奏して「先賢を顕彰するため、その子孫を召し出すべきです」と意見した。祖父が「儒宗」と呼ばれる高名な儒学者だったので、鄭小同は召し出され郎中に任じられた。この時30歳であった[5]。
後に司馬師が曹芳(斉王)の廃位を行なった時、廃位を要求する上奏の中に、鄭小同は名を連ねている。
曹芳に代わって曹髦(高貴郷公)が帝位に即くと、正元2年(255年)に司空の鄭沖らとともに『尚書』の講義を行なった。甘露3年(258年)、周代の三老五更の故事を元に、鄭小同は五更に任じられた。
ある日、鄭小同が司馬昭の家を訪問した時、司馬昭は密書をしたためていた。まだ、封をしないまま厠で用を足していたため、用を済ませ鄭小同の来訪に気付いた司馬昭は「卿は吾が手紙を読んだか」と聞いた。鄭小同が読んでいない旨を答えたが、司馬昭はなおも疑い、後に彼を毒殺してしまった[5]。