鄧淵
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鄧 淵(とう えん、生年不詳 - 403年)は、北魏の官僚。字は彦海。本貫は安定郡。
経歴
[編集]鄧翼の子として生まれた。経書を広く読んで、易筮を得意とした。道武帝が後燕を討って、中山を平定すると、鄧淵は抜擢されて著作郎となった。蒲丘県令として出向し、反乱の鎮圧にあたった。入朝して尚書吏部郎となった。鄧淵は制度に明るく、故事を多く知っていたため、尚書の崔玄伯とともに朝儀・律令・音楽の制定にあたり、また軍事や国事の文章記録の作成や詔策の文案は、多くが鄧淵の手によって成った。平陽の平定に従軍して、功績により漢昌子の爵位を受け、下博子に改められ、中塁将軍の号を加えられた。道武帝の命を受けて『国記』の編纂にあたり、鄧淵は十数巻分を作ったが、年月の見出しと君主の起居と出来事のみの記録で、前例のない体裁であった。
従父弟の鄧暉は定陵侯和跋と仲が良く、403年(天興6年)に和跋が処刑されると、和跋の子弟は長安に逃れたが、鄧暉がかれらを送り出そうとしたと告発された。このため鄧淵も道武帝に疑われて、処刑された。
子女
[編集]- 鄧潁(生年不詳 - 434年、下博子、中書侍郎。崔浩が国書を編纂したとき、鄧潁は崔覧らとともに著作に参与した。太武帝が漠南に行幸したとき、高車の莫弗の庫若干らが行在所を訪れたため、鄧潁は帝の命を受けて功徳碑の文章を作った。散騎常侍を兼ね、宋の文帝に対する使者をつとめた。侯爵に進み、龍驤将軍の号を加えられた。山胡の白龍を討ち、帰路に死去した)
- 鄧権(太武帝の征戦に従い、龍驤将軍・豫州刺史、新野侯。柔然に対する北伐に従って、罪を得て処刑された)
- 鄧顥(中書侍郎)