都賀田勇馬
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都賀田 勇馬(つがた ゆうま、1891年(明治24年)- 1981年(昭和56年)6月20日)は、日本の彫刻家である[1]。
経歴・人物
[編集]石川県金沢市の生まれ[2]。中学時代は素行不良により数回転校を繰り返し[2]、多くの中学校にて学んだ[2]。後に青木外吉からの推薦により[2]、石川県立工業高等学校に入学し彫刻家としての活動を始める[2]。卒業後は東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学し[1][2]、卒業後は帝展出品のために動物や歴史上の人物[1][2]、仏像等幅広い分野の彫刻像の製作にあたった[1][2]。
しかし帝展への出品までには7度出品されたもののいずれも落選し[2]、1920年(大正9年)に開催された第8回帝展でようやく入選されるという苦戦の人生を送る[2]。入選後は朝倉文夫の門人となり[1][2]、師匠の技法を元に彫刻を学んだ[1][2]。この業績もあり多くの賞を受賞する[1]。1938年(昭和13年)には石川県工芸指導所内の窯業課長に就任する[1][2]。その後は九谷焼の製作や彫刻家の育成にも携わり[2]、1941年(昭和16年)に彫刻家としての活動を引退した[2]。1950年(昭和25年)には日展審査員を務め[2]、翌1951年(昭和26年)には小松市にてハニベ大仏の建設に携わった[2]。
受賞歴
[編集]作品
[編集]人物像
[編集]動物像・その他
[編集]- 『干支 子』
- 『干支 寅』
- 『天神牛と童子』
- 『牝鹿』
- 『無碍』