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郭宗熙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
郭宗熙
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)[1]
死去: 1934年大同元年)12月29日[2]
満州国
出身地: 清の旗 湖南省長沙府長沙県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 郭宗熙
簡体字 郭宗熙
拼音 Guō Zōngxī
ラテン字 Ko Tzung-hsi
和名表記: かく そうき
発音転記: グオ ゾンシー
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郭 宗熙(かく そうき)は中華民国満州国の政治家。北京政府奉天派の政治家で、後に満州国に参加している。桐柏詗柏

事跡

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進士。日本に留学し、法政大学を卒業した。帰国後に翰林院庶吉士となる。さらに長沙府中学堂監督、奉天森林学堂監督、琿春副都統署理、吉林東南路兵備道、同西北路兵備道、浜江道監督を歴任した。[3]

中華民国成立後の1913年民国2年)1月、吉林提学使に任命され、まもなく同省教育司司長に改めて任ぜられた。翌年7月、吉長道尹に異動する。1916年(民国5年)4月、護理吉林巡按使となる。翌年11月、正式に巡按使に任ぜられた。1919年(民国8年)10月、罷免され、いったん天津に隠居する。[3]

1925年(民国14年)、江蘇督弁楊宇霆の秘書長として復帰する。楊が江蘇省を追われると、郭宗熙は山東督弁張宗昌の下で参賛に任ぜられた。1927年(民国16年)8月から翌1928年(民国17年)5月まで京師図書館(現・中国国家図書館)館長を務め、さらに中東鉄路督弁にも任ぜられている。[4]張が国民革命軍の北伐に敗北して下野すると、郭もまた天津に引きこもった。[5]

1934年康徳元年)3月、満州国では愛新覚羅溥儀が皇帝に即位し、満州帝国となる。このとき、初代尚書府大臣に郭宗熙が任命された。同年12月29日、在任中のまま郭宗熙は肝癌のため死去した。[6]享年57。

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  1. ^ 徐主編(2007)、1270頁と中国国家図書館ホームページによる。一方、「郭満洲國尚書府大臣逝く」『東京朝日新聞』1934年12月31日は「享年六十三」としており、これに拠るならば1872年となる。
  2. ^ 劉ほか編(1995)、1148頁は「1935年2月死去」としているが誤り。
  3. ^ a b 徐主編(2007)、1270頁。
  4. ^ 中国国家図書館ホームページ。
  5. ^ 徐主編(2007)、1270-1271頁。
  6. ^ 「郭満洲國尚書府大臣逝く」『東京朝日新聞』1934年12月31日。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 「歴任館長 郭宗熙」中国国家図書館ホームページ
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  満州国
先代
(創設)
尚書府大臣
1934年3月 - 12月
次代
袁金鎧