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郁久閭縕紇提

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

郁久閭 縕紇提漢音:いくきゅうりょ うんこつてい、拼音:Yùjiŭlǘ Yūngētí、生没年不詳)は、西柔然部の部族長。地粟袁の子で匹候跋の弟、初代可汗となる社崙の父。

生涯

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地粟袁が死去すると、柔然部は二つに分かれた。地粟袁の長子の匹候跋は父の後を継いで東部に住み、次子の縕紇提は西部に別居した。

建国39年(376年)、代国前秦に攻められ、代王の拓跋什翼犍卒去すると、縕紇提は匈奴鉄弗部劉衛辰に従属して代国に背いた。

登国6年(391年)10月、北魏となって復興した代国は縕紇提を討伐し、柔然部は部落を移動させて逃走した。北魏軍は逃げる柔然部を追って大漠の南、牀山の麓で追いつき、これを大破して半数の部落を捕虜とした。

北魏は縕紇提の子の曷多汗と曷多汗の兄である詰帰之・社崙・斛律らを捕らえ、郁久閭氏一族数百人を収容して諸部に分配した。縕紇提は西方に逃げ、劉衛辰に帰順しようとした。道武帝が縕紇提を追って跋那山に至ると、縕紇提は再び降伏した。道武帝は以前と同様、縕紇提を撫慰した。

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参考資料

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  • 魏書』(帝紀第二、列伝第九十一 蠕蠕)
  • 北史』(列伝第八十六 蠕蠕)


先代
地粟袁
西柔然部の部族長
? - 391年
次代
社崙